ナブチ
底なしの地底を這っている時、それは無定形の塊でしかなかった。
名前を持たず、ただひっそりと訳もわからず存在していた。
四方のいずれかへと向けて体らしきものを動かせば、塊がぐにゃりと撓み、何らかの形を取りはじめる。だが、動きを止めれば、瞬く間にそれはまた別の形状へと変わりはじめ、丸くなったり四角くなったりをさまざまにくり返す。妙な突起をあちこちに出したり、あるいは窪ませてみたりと目まぐるしく形を変えるのだ。
――なんらかの形をなせば、何ものかになれる。
それは、そう信じてでもいるかのようだった。
もぞりもぞりと蠢いては行くべき方を探していた。表面に突起をいくつかつくり線状にしたものを差し伸ばしてみれば、どこかしら常ならぬ感覚が生じた。上方に何かがあるような気配がする。
だが、無明の闇のなかであってみれば、上であって上でなく、下であって下ではない。方向など定まるものでもなかったが、それは何かに引き寄せられるようにして、少しずつ少しずつそちらのほうへと移動していく。表面を波うたせ、形をさまざまに変えながら。
無限とすら思われるほどの時を経て、それはようやく地上に這い出した。熱いものが表皮を撫で、そのまま動かずにいれば溶けてなくなってしまうような気がする。底なしの地底にいたときは、湿生に近い存在であったため、湿り気を帯びた場所を本能的にそれは求めた。
光に灼かれぬよう細心の注意を払いながら、一度止めた動きを此度は水平方向へと変えてみる。移動しやすいようになのか、それにはすでに手足のようなものが生えていた。ぐんにゃりと身体全体を撓ませながら、のそりのそりと動きだす。はじめはどこかぎこちなく、だがひとたび運動を開始してみれば、地上を這うのは造作もなかった。
底なしの地底ではかなわなかったことが、なぜかこの地上ではあまりに容易い。今やそれは一つの形をなしていた。亀の甲羅から手足だけが突き出たような奇妙な恰好。だが、表面はあくまでもやわらかく、水面に漣を起こした時のように、小さな顫えを帯びていた。
土の上を下生えの陰に隠れるようにして移動する。四肢と呼びうるものができたおかげか、やすやすと歩みを進め、ほどなくそれは鬱蒼と木々の茂る森へと至っていた。
そこでまたしても動きを止め、それは一つの突起を突き出してみた。ある種の生き物についている尻尾のようなものである。四肢だけでもよいが、それではいささか具合が悪い。それで尻尾をくっつけてみたが、そうなると今度は重心が後ろへとかかりすぎる。それには前も後ろもあってないようなものだったが、進行方向とは逆だったので、「後ろ」と便宜上呼んでみたまでのことだ。
重心を安定させるため、今度は前側に一つの突起を突き出してみた。すると、しっかりと平衡がとれたので、それはそのままの姿を維持することにした。
木蔭に入ったため、最前から感じていた熱も少しは凌ぎやすくなりはしたが、ひとたび形が安定すると今度は乾燥と渇きが気になってきた。
さて、それなら何をしたらよいだろうか。それは無防備なまま空気にさらされていた表面を、毛で覆ってみることにした。力を少しこめれば、ただそれだけで、一瞬でぶわりと毛が生える。そうなればもう陽の光に出会ったところで、乾ききってしまうおそれはなかった。
勇を鼓したように、明るいほうへと向けて移動を開始する。思い切って日陰からとび出せば、体表面が光を感じた。ただ昏いばかりでじめじめとしていた世界とは、まるきり異なる感覚がある。灼かれるような焦げつくような。突き刺すようでもあり、撫でるようでもある。苛烈でありながらも、だがそこには確かなあたたかさがあった。
しかしながら、それはまたもや歩みを止めた。ここまできてもまだ何かが足りないような気がするのだ。光を感じることはできても、熱とピリピリとした刺激としか感じられない。キラキラした何かが表面に当たっていることからすれば、それだけではないような予感がした。
それは、頭部らしき前方の突起に窪みを一つつくってみることにした。穴を穿つようにしてへこませれば、それだけで簡単につくることができた。けれども、一つきりではどこかもの足りない。すぐに隣にももう一つ同じような凹みを穿ってみた。
自ら確認することはかなわぬとはいえ、二つの穴が並んでいるさまは、想像するだに申し分なかった。かすかに満足を覚えはすれど、それでもまだもの足りなさを感じる。穴というものは、本来、何かを埋めるためにあるのではないか。
そこでつくったばかりの黒い二つの穴に、丸い玉をはめ込んでみることにした。それもまた、それが即興でつくり出したものである。
こうして、光を熱としてではなく、映像として捉えることが可能になった。頭部につくった二つの玉は、さまざまなものを映しだす。
同じようにして、それは頭部の真ん中、ちょうど二つの目玉の下あたりに、尖りをつくり出してみた。突起部の先端には、小さな穴を二つそえる。すると、そこから空気が取りこまれ、ひどく芳しい感覚がした。
それでもなお、やはり何かが不足している。此度はいったい何なのだろうか。それはしばしの思案の後、鼻の下にもう一つ空隙を穿ってみた。そうすれば、そこから水分を取りこめるように思ったからだ。
空隙をつくったからには、突起も必要だ。凹凸の均衡こそが、それを形づくる原則だからである。目玉の上のほうにまだ空間的余裕があったので、そこで目玉と同じように二つの突起をつくり、中を穿ってみることにした。そこから入ってくる空気からは、微弱な振動が伝わってくる。
ひとしきり作業を終えて、ようやく満足を覚えたそれは、またしても動きを開始した。
此度は、形をなすためのものではなく、探索のためのものだ。地上がどのようなところなのか、これまでいたところとどう違うのかが知りたい。わざわざ底なしの地底からこうしてやってきたのだから。
だが、その前にまずは足りない水分を補う必要があった。形をつくり変えるのに多くの力を使ったため、すっかり疲労困憊してしまった。恢復のためには、少し休息する必要もある。
鼻をつき出し、空気の流れに含まれる湿気から水の在処をさぐる。鼻先を蠢かせてみれば、さまざまな芳香がいちどきに入りこんできた。だが、それを弁別する術をそれは持たぬ。頭の上に突き出た三角形の耳からも、振動だけは伝わってくるが、だからといってそれがなんなのかがわからない。
いずれにせよ、その場にとどまっているだけでは、何も変化は生まれない。湿り気のありそうな方向を目指して、それは移動を再開した。
これまでと違っていたのは、しっかりとした四肢があることだ。そして、頭部につくった空隙と突起は感覚器官として、さまざまなものをそれにもたらしてくれる。この世界には熱や湿り気はもとより、様々な感触が、色彩が、匂いが、そして音がある。
底のない地底では想像すらできず、思いもよらぬことだったが、大地を踏みしめるのは実に心地がよかった。定まらず常に不確かだったものに、一つの芯ができたのだ。本能につき動かされるようにして、蹠で大地を蹴りながら、颯爽とそれは駆けた。風のなかに飛びこむがごとく。
木々の林立するなかを疾駆しつづける。匂いの濃いほうをめざして駆けていくと、やがて大きな水たまりにでくわした。それが渇きを癒し、潤いをもたらすものであることが、体感でわかる。表面の突起や穿った穴が湿気を敏感に感じとったからだ。
水面の上に身をのり出してみる。すると、揺れる表面に一つの影がうつった。一頭の四足獣がそこにいる。だが、それはそれが己自身を映し出したものであるとは気づきさえしなかった。そうであるならば、理解など宿るはずもない。
水面に顔を近づけ、そのままざぶりと鼻先を突っ込んでみる。ひんやりとした感触が快い。頭だけでなく、体ごと飛びこめば、大きな水飛沫があがった。
ただそれだけでも随分と愉快だったが、何よりも熱を帯びた体が冷まされるのが心地がよい。最前まで枯れはて蒸発してしまいそうだとさえ思っていた身内へと潤いを存分にとりこめば、底なしの地底でそうだったように、また柔らかでぶよぶよとした身へと変身し、別のものへと生まれ変わるような気がした。けれども、それはもはやただの錯覚でしかなく、確固とした形を保ったままその身はそこに在る。
渇きを癒し、ひとしきり水と戯れていると、今度は腹が減ってきた。形を変えるには、夥《おびただ》しい熱量が必要だった。消耗しきってしまったものを補わなければならない。
底なしの地底では、体から触手を伸ばしさえすれば、栄養分を摂取できたものだが、この地上においてはどうするのが最適だろうか。しばし、それは水に浸りつつ、思案をめぐらした。元の体に戻ろうかという考えが束の間脳裏をよぎったが、体表面が毛で覆われているため形が固定してしまって、もはやそれもかなわないという気がする。試みに力を込めてみても、もはや何も起こりはしなかった。それでは、この形こそが己が本来の姿だったのだろうか。
周りをよくよく見回してみれば、地上には多くの生き物がいるようだった。空を飛ぶものがいて、それと同じように、地上を駆けるものがいる。地を這う小さなものがあり、水の中にもひらめく何かがいた。傍らをすいすいと泳いでいる。
それを自らのうちに取り込めば、きっとまた何かが変わる。
ひりつくような飢餓感に突き動かされて、それは深みへ向けて頭から飛びこんでみた。すると一つのことがわかった。水を体内へと取り込むのはいいが、水の中では呼吸ができないということ。それに水の中を自在に動き回る生き物らとは異なり、自分は彼らのようにはできないということ。水の中の生き物たちは動きが速すぎて、捕まえることなど、ほぼ不可能といってよい。
浅いところまで引き返し、それはしばし動きを止めた。困惑していたのだ。そうしているうちにも飢餓感はますます募るばかりである。それならばと地上へ目を向ければ、小さな生き物たちがそこいらを動きまわっている。
四肢を持つものとなったからには、水の中よりは地上のほうがうまくいくような気がした。
それは水から上がると、小さな生き物を観察しはじめた。最前のようにただやみくもに飛びついたところで、捕まえられるとは到底思えなかったからだ。生き物たちの動きをまずは観察し、予測を立ててから行動する。思考だけはそれに初めから備わる唯一のものであった。
動きの止まる一瞬を狙って飛びつけば、前足で押さえつけることができる。一度成功してみると、二度目三度目は意外にたやすく捕まえることができた。それを貪れば少しばかりは、押し寄せるようだった空腹が引いていく。だが、いずれも小さな獲物でしかなかったため、もの足りなさを覚えた。
次はもっと大きなもので試してみよう。そこで、それは別の場所へと移動をはじめた。そちらにはもっとよいものがあると感覚のすべてが教えてくれる。
頭から長い突起の突き出た白い生き物がいた。先ほど捕らえたものよりもいくぶんか大きく、それを腹に収めれば、しばらくは何も食べずともよいように思われた。茂みに身を隠し、じっくりと様子を観察する。一心に草を食べていて、こちらにはまるで気づいていない。
一息に跳びつけばやすやすと捕まえることができた。もがいて逃げようとする獲物に食いつこうとした時、そいつが哀れめいた叫びを上げた。
「どうかおやめください。わたしなんかを食っても何もいいことはございません。それよりももっとよいものがございます。それをお教えいたしますから、どうかどうか此度はご勘弁してはいただけないでしょうか?」
突然、そいつが喋りだしたので、驚いてそれは飛び上がりそうになった。
「まずはどうかこの立派な御御足をどけてはくださいませんか。このままでは苦しくて喋ることすらままなりません」
続けて懇願され、とりあえずそれは話を聞いてみることにした。つまらなければそのまま一気にがぶりとやればいい。そう思ったからだ。
押さえつけていた前足をどけ、だが警戒は怠らず睨めつけるようにそいつに問いかける。初めてであるにも拘らず、言葉は意外にすんなりと出てきた。
「いいものとはなんだ?」
そう問えば、そいつは長い耳をピンと立てて、鼻をひくひくと蠢かせた。
「ありがとうございます、ありがとうございます。これでゆっくり話ができるというもの」
「それで。いいものとは何なのか教えろ」
「おやおや、随分とせっかちなご様子。ですがまあ、腹が減っては戦ができぬ道理。それも然りというべきでしょうな」
揶揄めいた言葉と同時に、そいつはじっとそれを凝視してきた。何かを値踏みでもするかのように。
「ふうむ、やはりというべきか。……見たところあなたさまには欠けているものがございます。それは、今のあなたさまにはないものでございますが、一度それを手に入れた暁には、あなたさまはこれまでよりももっと確かなものとなれましょう」
「なぜそんなことがわかる」
「わたくしめはこの森に昔から棲む神のしもべでございます。多くの年月を閲すうちに自然と身についた知識がございますゆえ……。おっと、失礼。申し遅れましたが、わたくしめはウサギのジャックと申します」
長い耳を誇らしげにピンと立てて、深々とお辞儀をし、獣が名乗る。
「わたしは……」
それに応えようとして、それは、不意に動きを止めた。思考をいくらめぐらそうとも、自らをなんと呼べばいいものやら、わからなかったからである。尻尾だけが心の動きを映し出すようにゆらゆらと揺れていた。
するとウサギのジャックは我が意を得たりというように頷いて、言葉を続ける。
「そうそう、それでございますよ。あなたさまに第一に欠けているものとは。それですよ、そ、れ」
言葉を区切るようにしながら、長耳の獣が云った。いちいち大袈裟な物言いがいささか勘に障る。
「なんだと?」
「『それ』といいますのは、ずばりあなたさまのお名前でございます。この地上に存在する生きとし生けるものには、名前というものがございます。なのにそれを持たぬということはまるきりこの世に存在しないも同然。生きている限り、誰もがいの一番に必要とするものでございましょう。なのに、あなたさまはそれをお持ちにならぬという。ないものはつくりだせばよいのがこの世の道理。ならば、わたくしめが考えてもよいですが、普通それは誰かによって生まれた時に与えられるもの」
「名前だと? そんなものがなんの役に立つ」
これまでのところ名前などなくとも特に問題はなかった。体をつくり変えるのには、そもそもそんなものは必要ない。
「いえいえ、大いに役立ちますとも。例えば、このわたくしめでございますが、わたくしにはウサギという種族名とともに、ジャックという個体を識別する名がございます。それによって、自分が何に属するかも、自分がその種族の誰であるかもわかります」
「おかしなことをいう。ならば何ものにも属していなければ、名前も存在しないことになるではないか」
「それは確かにその通りでございますが、いったいこの世に生まれて何者でもないものなど真に存在しえましょうか」
そう云われ、一理あるような気がしてくる。だが、己が何者であるかなど知る必要があるのだろうか。
「どうやらまだお疑いのご様子。ならば、まずは我らの王国へお越しいただきたい。さすれば、わたくしめの言葉が正しいことが必ずやおわかりになれましょう」
「なぜそこまでする?」
先程まで食われそうになっていたのに、その相手に対するものとしてはおかしいのではないか。不審のまなざしを向ければ、このわたくし、ウサギのジャックめは、王国の水先案内人でございます。お役目であれば、ご案内するのは当然のこと、などと云う。
獲物とするのは、ひとまずおいておくしかないようだ。
腹がへっているのであれば、あれなどどうでしょうと云われ、とりあえず木の実を腹におさめてみた。満足からはほど遠かったが、獲物の算段はまた後々考えることにする。
こうして、それは、ウサギのジャックに誘われ森の奥深くへと足を踏み入れたのであった。
「ふうむ、これはなんとも美味じゃ。今までこれほどうまいものは食したことがない。そなたはまことによく尽くしてくれる。ウサギのジャックよ。そなたの望み通り、大臣に取り立ててくれようぞ」
むしゃむしゃと咀嚼をしながら、大きな熊の王がウサギのジャックを睥睨して云う。その足元ではウサギのジャックが長い耳を垂れて額ずいていた。
「はっ、ありがたき幸せ」
ウサギのジャックはそう云って、さらに深く深く頭を垂れた。
「もしまた、同じようなものがあれば捕らえてくるがよい。して、これはいったいなんという種族であろうかな」
「ナブチでございます」
「ふうむ、聞いたことがないが、いったいどこに棲息している者か?」
「残念ながら、わたくしめが王様に献上した一体が最後の生き残りでございます。もはや地上にはどこにもいない、きわめて稀なる珍味でございますれば、これは是非ともわが君にご賞味いただかねばと、粉骨砕身した次第でございます」
「なんと。もはや手に入らぬとは実に口惜しい。だが、ナブチとは奇妙な名であるな。どのような意味か」
「自らの名を知らぬ者、名知らず、すなわち、名不知との意味にございます」
「なるほどよくわかった」
一言そう漏らすと、熊王は咀嚼に専念すべく、ウサギのジャックを退がらせた。骨の髄までしゃぶりつくしてもまだ足りぬとばかりに、一心に口を動かしている。
かくしてそれはついに一つの名を得たのであった。その命と引き換えに。
