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北九州キネマ紀行【門司港編】映画資料館作りを夢見た映画館主と松永文庫の物語〜大正・昭和の映画資料は語り出す


それはポップでキッチュな数々

以下にご覧いただくのは、大正や昭和の映画(活動写真)ポスターや宣伝素材。
いずれも福岡県北九州市門司区にある映画・芸能資料館「松永文庫」に収蔵されている資料の、ごく一部。
松永文庫のご好意で掲載させていただく。

「地雷火小僧」ポスター(1939〈昭和14〉年・全勝キネマ)
「鐘の鳴る丘」ポスター(1948〈昭和23〉年・1949〈昭和24〉年に第一篇〜第三篇公開/松竹大船)
「悪魔は永遠に」/ 連続活劇「鷲の爪 第五編 第六編」/ 「山の悪魔」広告素材(永真館)=「悪魔は永遠に」は1924(大正13)年の無声映画(永真館は門司にあった活動写真館)
「阪崎出羽守」素材(朝日座)=1925(大正14)年の無声映画

いま見てもポップでキッチュなデザインで面白い。

35個の段ボール箱に収められていた1万を超す資料

これらの資料が、関係者によって確認されたのは2013(平成25)年のこと。
整理・点検が進められたのち、2014年から2015年にかけて公開され、多くの人たちの目に触れた。

確認された資料の数が半端ではなかった。
時期としては、大正の1920年代から昭和の1970年代あたりまでのものがあり、総数は10,604点。
計35個もの段ボール箱に収められていた。

その内訳は

  • 書籍・雑誌1,091冊

  • チラシ・プログラム3,909枚

  • 機関誌300誌

  • 会報誌2,479誌

  • ポスター108枚

  • スチール写真1,535枚

‥‥などなど。

これほど大量の大正や昭和初期のものを含む映画資料が、突如発見された例を私は知らない。

いったい誰がこの資料を収集したのか。
そして、どうして、かくも長く知られていなかったのか。
その物語をたどりたい。

松永文庫とは
松永文庫は、長年にわたって個人で映画・芸能資料を収集した松永武さん(2018年に83歳で死去)が1997(平成9)年、北九州市門司区の自宅で無料公開を始めたのを起点とする。

松永さんは2009(平成21)年、すべての資料を北九州市に寄贈し、同文庫は市の文化施設になった。

場所を門司市民会館に移した後、2013(平成25)年に門司港レトロの観光施設・旧大連航路上屋きゅうだいれんこうろうわや=北九州市門司区西海岸=内にグランドオープンした。
定期的に企画展が催され、無料で見学できる。

松永さんは、映画資料の収集・公開に尽力した功績で2016(平成28)年、「第25回日本映画批評家大賞」の特別賞を受賞した。

松永さんはギター教室を主宰したり、門司港名物・バナナのたたき売りの研究をしたりしたことでも知られた。自主製作のLPレコードに「ザ・バナちゃん節 バナちゃん節同好会大全集」、著書に「望郷子守唄 バナちゃん節のルーツを探る」がある。

松永武さん
松永文庫が入る旧大連航路上屋=北九州市門司区西海岸(JR門司港駅から歩いても近い)

(松永文庫の所蔵資料は同文庫のホームページでも見ることができます)

「これは、ただものではない」

この大量の映画資料を収集したのは、長く映画館経営に携わった中村じょうさん(故人)。

そして、この膨大な資料を丹念に整理し、公開に尽力したのは松永文庫室長の松永武さんと、室長代理のなぎ恵美さん、岩田夕子さん。

それは2013年9月4日のこと。
北九州市立中央図書館から松永文庫に1本の電話が入った。

「(外部から)受け入れた映画関連の本の中に書類のようなものが大量にあります。これは松永文庫で(引き取りを)お願いできないでしょうか」

松永さんと凪さんは、どんな書類なのかを確認するため、とりあえずその一部である段ボール箱5個を送ってもらった。

開封して中身を確認するうち、松永さんの表情がみるみる驚きに変わっていく。
確認を終えると、松永さんは言った。
「これは、ただものではない」

映画館関係者でなければ持ちえない資料

松永さんはすぐに全てのものを受け入れることを決めた。
2013年9月12日から10月17日にかけて、4回にわたり、残り計30個のボール箱が松永文庫に運び込まれた。

松永さんは長年にわたって映画・芸能資料を収集し続けてきただけに、資料の価値を判断する目は確か。
確認しながら顔色を変えたのは、その中身が映画館関係者でなければ持ちえない、歴史的に貴重なものが数多く含まれていたからだ。

例えば

  • 大正期の映画フィルムの流通を記録した「番組通知つづり

  • 大正期のものを含む、地元映画館のチラシなど様々な宣伝素材

  • 中村さんが終戦直後の1945年10月、GHQ(連合国軍総司令部)に映画館再開を求めた「陳情書」の下書き

‥‥などなど。

映画ファンや映画研究者なら〝よくぞ残っていてくれた〟と言いたくなるものばかり。
だが、これらが、そもそもなぜ北九州市立中央図書館に届いたのか。

それは中村さんが1992(平成4)年に亡くなり、遺族が寄贈を申し出たから。
後に分かったことだが、中村さんは集めた資料を使って、本格的な映画資料館を作ることを思い描き、JR小倉駅近くに土地まで購入していた。

遺族は中村さんが亡くなった後も、中村さんの夢をかなえようと資料を保管していたが、高齢になったこともあり、図書館に寄贈を申し出たのだった。

その資料が、巡り巡って松永文庫へやってきた。

映画に携わるという共通項はあったものの、松永さんと中村さんに面識はない。
しかし、不思議なことに、松永さんが最初の段ボール箱を開封した時、まず出てきたのが、松永さんが主宰していた「松永ギター教室」の印が入った封筒だった。

日の目を見た中村コレクション

松永さんと凪さんらは、通常の業務をこなしながら、膨大な数の資料をクリーニングしたり、仕分けしたりするなど、丹念に整理を進めた。

その作業を経て、松永文庫は2014(平成26)年9月6日から2015(平成27)年1月30日にかけて、「中村上コレクション映画資料展」を、3パートに分けて開催した(パートは「撮影所・映画館」「俳優・出版物」「芝居・劇場」)。

これによって、中村コレクションは初めて多くの人たちの目に触れた。

中村上コレクション映画資料展(2014〜2015年)のフライヤー
中村コレクションの企画展は2016(平成28)年にも開かれた。
これはその時のフライヤー

松永文庫の中村コレクションは2022年、国立映画アーカイブ(東京)の展覧会「日本の映画館」でも展示され、さらに多くの人たちが目にした。

中村上さんとは

さて、中村上さんとはどんな人だったのか。

中村上さん

中村さんは1903(明治36)年、福岡県の旧門司市生まれ。
18歳になる1921(大正10)年、門司市の活動写真館(映画館)「早鞆はやとも俱楽部」に就職し、支配人も務めた。
1924(大正13)年に独立。最盛期には北九州やその近郊、大分県や熊本県で13の映画館を経営し、戦後も1980年代あたりまで映画館経営に携わった。

その映画館の名前を挙げると

  • 松竹館(旧小倉市香春口)

  • 松竹座(大分県中津市)

  • 富士館(福岡県行橋市)

  • 人吉東映(熊本県人吉市)

‥‥などなど。

中村さんのことは、福岡県の映画館の歴史などをまとめた能間義弘さんの著書「図説 福岡県映画史発掘」(1984〈昭和59〉年、国書刊行会)にいくつかエピソードが出てくる。ポイントを整理して紹介するとーー。

・(中村さんが就職した)「早鞆俱楽部」は、もとは松竹系の「メカリ館」といった(大正13年から14年にかけて一時「早鞆倶楽部」と改称)。解説者に桜井辰暁の他、博多バッテン館から人気者の森口ススムが登場。松竹の「阪崎出羽守」「大地は微笑む」、洋画は「荒武者キートン」などを上映し、賑わった。この頃、若き日の中村さんが支配人として活躍した

・中村さんが語っていた話。大正13年春、マキノキネマ一行が大挙博多入りし、その後八幡市前田(現在の北九州市八幡東区)の大成館で舞台あいさつをした。同館では「鮮血の手型」を上映中だったが、阪東妻三郎扮する芥川逸藤太が御用提灯の重囲の中に出没するシーンで、解説中の弁士が場内の熱気にあおられて「おお、その時突如として現れたのが、阪東妻三郎」と絶叫したので場内は大笑い。あいさつの出を待っていた阪妻本人も失笑して、舞台に出てからもしばらく笑いが止まらなかったという

・昭和11年11月21日、中村さん経営の新しい映画館・迎陽館が、場所を変えて(小倉の)紺屋町に開館。マキノ・トーキーと洋画を併映したが、まもなく公楽座となり昭和土地経営となった

・中村さんは戦時下の昭和17、18年ごろ、五つの映画館を経営していた

能間義弘著「図説 福岡県映画史発掘」

資料は立ち上がり、しゃべり出す日を待つ

以上が、中村さんの資料と松永文庫の物語。
映画と映画館をめぐる興味深い歴史は、中村さんがその裏付けとなる資料を残し、松永文庫が公開していなければ、世に知られることはなかった。
中村さんは本当に映画を愛した人だったのだろう。

資料というものの存在を考える時、思い出すのが北九州市門司区に住んだ作家・佐木隆三さん(1937〜2015)=映画化もされた「復讐するは我にあり」で直木賞を受賞=の、こんな言葉。

「眠っている資料は、立ち上がる機会を待っており、こちらが本気になって求めれば必ず巡り合えることを、いくつかの経験から信じている」

八幡製鉄所で「高炉の神様」と言われた田中熊吉の生涯をたどった佐木隆三さんの著書「宿老・田中熊吉伝 鉄に挑んだ男の生涯」

一方、松永文庫が基本にしているスタンスも「資料に光をあてる」こと。
松永さんは凪さんに、こう言っていたという。

「どんなものでも切り口を工夫すれば立派な資料となり、何かをしゃべり出す」

先人が残した資料は、インターネットでも見ることのできないものがある。
未来に伝えるべき映画の資料は、きっとまだどこかにあり、「立ち上がり、しゃべり出す」日を待っている。

(取材協力:松永文庫)

関門海峡に明かりをともす門司レトロ灯台(松永文庫の近くにある)。松永文庫は資料に光をあてる。その光は暗闇の中で資料を探す人の背中を押す

(松永文庫にまつわるエピソードをこちらの記事でも取り上げています)



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