博士号を取るために必要な6つの資源とは
博士課程に来る人というのは大抵の場合、学校で優秀な成績を収める人、真面目にコツコツ頑張る人が多いと思います。にもかかわらず、博士課程での苦労話は尽きません。Lovitts(2005)は「研究者になるには優等生であるだけでは足りない」と題して、そのような学生がどのように研究者になるのかを理論的に検討しており、そこで示される6つの資源は博士課程を実りあるものにするための示唆に富んでいます。
博士課程で求められるものとは何か
優等生から研究者への移行の難しさは、Lovittsの議論を借りると次のように整理されます。多くの場合、博士課程の学生は学部や修士課程で「授業をうまくこなせる学生」が評価され、選抜されます。しかし、博士号が授与されるのは、授業をうまく履修したからではありません。博士号は、独立して研究を行い、知識に対して独創的な貢献を行う能力に対して与えられます。つまり、博士課程で問われるのは、既に与えられた問題を正しく解く能力だけではなく、自分で意味のある問題を見出し、それに対して研究として妥当な形で答えを出していく能力です。
依存的段階から独立的段階への移行
Lovittsは、この変化を「依存的段階」から「独立的段階」への移行として説明します。依存的段階では、学生は授業を受け、文献を読み、理論や方法を学びます。この段階では、すべきことがある程度教員やカリキュラムによって構造化されています。
これに対して、独立的段階では、学生は既存知識を消費する側から、知識を生産する側へ移ります。この重要な転換を前に、多くの人が「あれ、今までの勉強の仕方では通用しないぞ」と気付きます。これまで他の記事でも書いてきたように、リサーチクエスチョンを面白くないと言われたり、先行研究を読んでいるのに、ただの羅列的なまとめになってしまったり、先生から「で、あなたは何が言いたいのですか」と言われたりするからです。創造性が求められ、優等生のスタイルでは通用しない現実がやってきます。
創造性はどのように成立するのか

Lovittsの議論が私たちに勇気をくれるのは、この問題を単に「本人の能力不足」や「天才的ひらめき」として終わらせず、創造性は構造によって生まれると考えるところです。この構造は個人、知識領域、評価共同体の相互作用として捉えられます。研究者は、自分の分野の知識を理解し、その分野で何が重要とされているかを把握し、そのうえで新しい方法で知識に働きかけます。そして、その成果が専門家の共同体によって価値あるものとして認められたとき、それは創造的な貢献と見なされます。
そのためには、その領域における知識生産のメカニズムを理解し、共同体に貢献するという能動性が求められます。しかし、優等生的なパラダイムにいると、このことになかなか気づけず、なかなか独立的段階に移行できません。
研究者を支える6つの資源
では、この移行を左右するものは何なのか。Lovittsは、創造的な仕事に必要な資源として、知能、知識、思考スタイル、パーソナリティ、動機づけという5つの個人資源と、環境を取り上げています。

知能
Lovittsは、博士課程での成功や創造的な成果は、単に「知能が高いかどうか」では説明できないと指摘します。ここで登場するのが、分析的知能、創造的知能、実践的知能の区別です。
分析的知能は、与えられた問題を理解し、解き、その解答の妥当性を評価する能力であり、優等生的な世界で重要視されます。これに対して創造的知能は、新しい問題を設定したり、既存の問題を新しい仕方で再構成したりする能力を指します。さらに実践的知能は、自分のアイデアを他者に伝え、批判に応答し、専門家共同体の中で受け入れられる形にしていく能力です。Lovittsは、博士課程においてはこれら三つの知能がいずれも重要であり、とりわけ創造的知能と実践的知能が、優等生でいるうちは見えにくいにもかかわらず、研究者にとっては非常に重要になると論じています。
知識
博士課程の学生は、当然ながら自分の分野の理論、方法、先行研究について深い知識を持つ必要があります。しかし、それに加えて、その分野の文化や評価基準、暗黙のルールを知ることといった非公式知が不可欠だとされます。
Lovittsは、この非公式知が、授業や教科書を通じて明示的に教えられるものではなく、指導教員や同輩、研究会や学会といった場での相互作用を通じて獲得される点を指摘します。したがって、知識とは単に「知っている内容」ではなく、その分野の中でどのように振る舞い、どのように発言するかを含んだ実践的な理解でもあると位置づけられています。
思考スタイル
依存的段階では、構造化された課題や試験に適合する思考スタイル、すなわち既に定義された問題に対して正確に答えるスタイルが評価されます。しかし、独立的段階では、問題そのものを構成し、曖昧さの中で試行錯誤しながら研究を進める思考スタイルが求められます。
Lovittsは、創造的能力や思考スタイルが十分に発達していない場合、学生が安全で慣習的なテーマやアプローチにとどまる傾向があることも指摘しています。これは、単に「能力がない」というより、これまで評価されてきた思考の使い方と、研究で求められる思考の使い方が異なることに起因します。そのため、授業段階での優秀さが、そのまま独立研究での成果に結びつくとは限らないのです。
パーソナリティ
パーソナリティについて、Lovittsは創造的な仕事と関連する傾向としていくつかの特性を挙げています。具体的には、自己規律、目先の満足に飛びつかない粘り強さ、フラストレーションに対する忍耐、判断の独立性、曖昧さへの耐性、自律性、内的統制感、リスクを取る姿勢などです。
これらは、博士論文のように長期的で不確実性の高い課題に取り組むうえで重要になります。研究過程における失敗や停滞は例外ではなく常態であり、それにどのように向き合うかが創造的パフォーマンスに関わります。したがって、「正しくやること」への過度な志向よりも、不確実な状況の中で試行錯誤を続ける姿勢が重視されます。
動機づけ
動機づけについて、Lovittsは、それが「何ができるか」と「実際に何をするか」を媒介する要因であると位置づけます。すなわち、能力や知識があっても、それが実際の研究行動に結びつくかどうかは動機づけに依存するということです。特に、研究テーマに対する関心や熱意といった内発的動機づけが、博士論文の完成や創造的な成果にとって重要であると論じられています。
Lovittsは、博士論文が未完成に終わったり、質の低いものになったりする理由の一つとして、学生がその問題を本当に知りたいと思っていなかった可能性にも言及しています。したがって、動機づけは単なる「やる気」の問題ではなく、研究テーマとの関係性そのものに関わる要素として扱われています。
環境
環境ではミクロ環境とマクロ環境が区別されます。ミクロ環境には、指導教員、同輩、他の教員、学科、研究室などが含まれ、学生の日常的な研究活動に直接関わる場です。
Lovittsは、とくに指導教員の役割に注目し、博士号取得者を多く輩出している指導教員が、研究に必要な行動や思考過程をモデルとして示し、足場かけを行いながら、学生との関係を徐々に同僚的なものへと移行させていくことを指摘しています。これは、学生が依存的な学習者から独立した研究者へと移行する過程を支える重要な要素とされています。
マクロ環境としては、大学院教育や学問分野の文化が挙げられます。当然のことながら、正解を暗記するような教育が尊重される文化では創造性は発揮されにくくなります。一方で、創造的知能や実践的知能、非公式知の獲得、曖昧さへの耐性、内発的動機づけを支えるような環境が整えば、学生が研究者へ移行する可能性は高まります。
依存的段階を脱却するためのバロメーター

この議論の要点は、創造性を個人の資質ではなく、個人と領域と共同体からなる構造から生み出されると考えているところです。そしてこれは、状況的学習の考え方と非常に親和的です。ここでその詳細を書くには長くなり過ぎてしまうので止めておきますが、状況的学習において重視されるのもまた、コミュニティ内における人々との相互作用です。
Lovittsの指摘する重要な点に非形式知やコミュニティの規範が出てくることからもわかるように、これらは一人でどれだけ勉強を頑張っても得られないものです。優等生的な考え方では「正しい答えを一人で出す」必要がありますが、研究者は他の研究者と議論を交わしてフィードバックを得たり、初めて臨む実践には誰かの助け(Lovittsの言う足場かけ)を必要としたりするものです。
そういう意味で、一つのバロメーターとして「どれくらいゼミの仲間や指導教員と会話をしているか」「学会に出ているか」「ゼミ以外の研究者と交流があるか」などが考えられるでしょう。もちろん研究は自分で考え、進めるのが大前提です。その上で、もし「まだこれでは人に見せられない」と思って誰とも話せていないし学会発表もしていないとしたら、黄色信号かもしれません。
これは答えを聞きに行けという話ではありません(そう感じたなら、まさにそれが優等生的な思考)。今自分の考えていること、煮詰まっていることを素直にぶつけて、相手から帰ってくる反応を通じて自分なりにまた考えを深めるということです。
例えば、「先生に質問する」という行為一つとっても優等生と研究者はまるで違います。高校生が先生に解法を尋ねに行くのは褒められる行為かもしれません。しかし研究においては、指導教員はいろいろとヒントを出すことはできますが、「こうしなさい」ということはできません。優等生的な思考でいると、このような対応について「適切な指導を受けていない」とすら感じることがあるでしょう。一方で、議論や対話は可能です。自分が考えているロジックや、採用しようとしている概念の妥当性について感想を聞けば、きっといろいろな意見がもらえるでしょう。それらを取り入れるかどうかは、自分次第です。
このようなやり取りを重ねれば重ねるほど、概念や理論の扱い方、言葉をデリケートに選ぶ感覚、その領域で当たり前とされている振る舞いなどに触れる機会が増えます。時には耳の痛いことを言われることもあるかもしれませんが、そういうことも含めて共同体の規範や価値観を学ぶ機会だと言えるでしょう(しかもキャリアの早いうちに言われた方が傷が浅い)。
「移行」は続くよどこまでも
Lovittsの議論は博士課程への移行を扱っていますが、この話は学位取得後にも続いていくように思います。学位を取って思うことは、その領域における伝統的な科学観や振る舞いを知った(身に着けられたかどうかはともかく…)として、そこに敬意を払いつつどんな貢献ができるかを考え続けなくてはならないということです。それは伝統の再生産だけでなく、新しい挑戦という形を取ることもあるでしょう。
いきなり奇を衒うようなことをしても当然理解されませんし、それを納得させるだけの実績も実力ない。しかし、一人の研究者としてやっていくからには、自分なりの視点や方法で知の領域を広げていきたい。
そういう意味では、学位を取ったからと言って研究者として完成するわけではなく、その後も連綿と続く自己研鑽の道が待っていると感じます。状況的学習においては、コミュニティが強固になるほど蛸壺化してしまって変化に対応できなくなるという議論があります。いつの間にか伝統に居座って受け身になっていないか、ということは常に意識していきたいなと思います。
参考文献
Lovitts, B.E. (2005) Being a Good Course Taker Is Not Enough: A Theoretical Perspective on the Transition to Independent Research. Studies in Higher Education, 30, 137-154. http://dx.doi.org/10.1080/03075070500043093
