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終わったと思ったあの日。マイケル・ジョーダン編

終わったと思ったあの日。

マイケル・ジョーダン編


1993年6月、マイケル・ジョーダンは3年連続のNBAチャンピオンになった。

マジック・ジョンソンもラリー・バードも到達できなかった3連覇。ジョーダンは30歳だった。

だが、その夏、ジョーダンはすでに引退を考えていた。

「1992年のオリンピックの時点で、次のシーズンが最後になるだろうと分かっていた。私は父とそのことを話し合い、父は私が精神的に疲弊していることを知っていた」

世界が「頂点」と呼んでいた場所で、ジョーダンはすでに疲れていた。その疲れを知っていた人間が、一人だけいた。



届け先

ジェームズ・レイモンド・ジョーダン・シニア。

野球が好きだった。息子に最初に野球を教えた人間だった。「息子はメジャーリーガーになれる」という信念を、バスケットボール選手になった後も持ち続けていた。ブルズの試合を追ってアメリカ中を旅した。3連覇の夜も、そこにいた。そして、息子が「もう終わりにしたい」と言ったとき、その言葉を聞いていた。

7月23日の夜、ジェームズはノースカロライナ州の駐車場で眠っていた。ゴルフの帰り道だった。2人組の男が車に近づき、眠っている彼を射殺した。男たちが持ち去ったものの中に、息子から贈られたNBAチャンピオンリングが2つあった。

遺体が発見されたのは、18日後だった。


証明するものがなくなった

10月6日、引退会見。

「バスケットボールをプレーするモチベーションがもはやない。私はキャリアの頂点に達した。もう証明するものは何もない」

何が引退を決めたのか。父の死か。1992年から積み重なっていた疲弊か。その両方か。ジョーダンは後年、インタビューのたびに少しずつ違う答えを返した。

会見の日、それ以上は語らなかった。


ステップを踏む時間

翌年2月、ジョーダンはマイナーリーグ契約を結んだ。野球。高校で最後にプレーしてから12年が経っていた。

バーミンガム・バロンズ。ダブルA。世界最高のバスケットボール選手は、打率.202だった。114三振。11エラー。

「私はあまりにも長く台座の上にいたため、そこに至るまでのステップを忘れていた。それがマイナーリーグの野球が私にもたらしたものだ」

頂点にいることは知っていた。だが、登っていく途中の感覚を、忘れていた。三振をした。エラーをした。それでも翌日も球場に来た。


天井に残したもの

1995年3月、ジョーダンはコートに戻った。プレスリリースは2語だった。「I'm back.」

23番はつけなかった。

「父が最後に見た私は23番をつけていた。あのジャージを天井から下ろしたくなかった」

45番を選んだ。野球時代の番号だった。父が知っていた自分の番号は、天井に残した。別の番号で、ジョーダンはコートに戻った。


On the Way 考察

バーミンガムの夏、ジョーダンはまた三振した。

ダグアウトに戻った。誰も、彼に世界最高の選手だと期待していなかった。翌日も同じ球場に来なければならなかった。打って、走って、また次の日が来た。

それが何に向かっているのか、ジョーダンはまだ知らなかった。

バットを、握り直していた。

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