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反・私小説の「私小説」を「書く」「小説家の小説」としての「私の批評」の文体について

映画美学校言語表現コースことばの学校第三期批評コース在籍時に執筆した町屋良平『私の小説』所収の「私の批評」の批評を掲載します。ところどころの荒っぽいところもありますが、読み返してみるとこれはこれで良いのではと思い、そのまま。太字〈〉が引用文です。



反・私小説の「私」小説


〈「毒」なのは母じゃない、祖母じゃないか、と私は思った〉という一文で町屋良平の「私の批評」は始まる。この「私」とは誰だろうか。一般に、小説を読む場合、文中の語り手である「私」は、「私=作者」、あるいは「私=登場人物」として認知処理される。

では「私の批評」の「私」とは誰か。「私」の居住地を語るくだりに〈いまでは亡き父の援助もあって、私のペンネームの由来にもなっている荒川区町屋に分譲マンションを購入し、せっせとローンを払っている〉という記述がある。「私の批評」の読者は、「私の批評」の作者が「町屋良平」と呼ばれる人物であることを知っているので、この時、読者はこの「私」とは「町屋良平」であり、よって、「私」によって語られる事柄は、「私=作者=町屋良平」の「人生の事実」なのだろうと、そういう憶測を担わされる。

しかしその憶測は早々に裏切られる。「私の批評」は、「私」と老いた母の癒着的な関係を語る小説でもあるが、「私」は老いた母に物欲がなくなっていると記述したのち、こう語られる。〈しかしときどき「CHAGE and ASKAのCDがほしい」といったり、「手塚治虫の『リボンの騎士』が読みたい」といったり、〈スピッツのCDをかってほしい〉といったりしているのだから、「物欲もなにもなくなってしまって」という先の文章はあきらかに書きすぎなのだが、小説はつねに書きすぎないと成立しないのだ〉。「私」の記述が、「私」の母の現実の発言と食い違っていることがあからさまに提示される。

私小説とは、「私」の「小説」だ。この「私」は「作者」と等号が結ばれる。「私」の人生で本当にあった出来事を語るのが「私小説」である。そしてこの「私」とは否応なく「社会」と衝突し相互に嵌入し、時には互いに妥協し折衝する、そんな「私」である。だから、「私」を描くとは、「私と社会」を描くことにもなりえる。しかし当然というべきか、「私=作者」という等号は、「読むこと」が「作者の意図/事実/人生を読むこと」へと短絡する余地をも作り出してしまう。そして「作者」の実在が作品のリアリティを担保するという転倒が引き起こされる。

町屋良平はこの「転倒」を逆手に取る。「私=町屋良平」が語っているのだから、語られたことは事実である、とまでは言わなくとも、すくなくとも事実に基づいて語られた、私の事実である。こういった「約束」が「私=町屋良平」と読者の間で交わされるように語りの操作がなされる。しかし町屋良平がその文体に影響を受けたといわれる「沼一真」など存在しないのだ。こうした「事実」の操作によって、「私=町屋良平」という等号が植え付けられた読者は、いわば「もうひとつの現実」としての「沼一真がいる世界」に参入させられることになる。

ここで行われているのは、「フィクションの境」自体の操作である———フィクションがフィクションになり/でなくなる境。しかしこの境は如何様にでも操作できるし、我々は実際操作しているし、そのことを見ないふりしているだけなのだ。

反・私小説の「私」小説を「書く」


「私小説」が「私=作者」の事実に基づくものとして考えたとき、そもそも、「私」は「私」自身ですら事実を事実として書くことはできるのだろうか。そしてもしもそれができないのだとして、「私」が「私の人生」を書くとはいかなる営みなのだろうか。「書くこと」はつねに現在形の行為である。しかし「書くこと」の向こうに事実を置く時、事実とはいつも過去に存在している。そもそも、「書くこと」によって書かれた言葉とは記号であり、その記号が発散させる意味によってしか、事実やらを伝達しえ
ない。もしも記号に意味を抜き去ったら、そこにあるのは「文字という形象」だけだろう。

にもかかわらず、「私」は「私」の生を書く。〈小説はつねに書きすぎないと成立しないのだ。とくに、事実関係や客観的情報に誠実であろうとする私性のつよい小説のほうがむしろ書きすぎてしまう傾向があった〉と「私」は書く。もしも「書くこと」が事実と照応関係にあるのなら、目的を遂行するための正確な手段としての適切な言葉があるということになるだろう。しかしそんな正解としての言葉は存在しない。「書きすぎてしまう」の「すぎて」という剰余の存在がこの文章の肝である。「すぎて」という剰余とは、適切な言葉を想定した時に、それを超過する際に生まれる言葉だ。むしろ、その「剰余」こそが小説の本質として考えてみたらと、このことを「私」は語る。

しかし、その語り方にはどこかしら「恥」のようなものが垣間見える。「書きすぎてしまう」ことを、恥じている、しかしそれは小説の成立ちとしてしょうがない、とそう言っているように見える。

この「恥」について、のちにこういう記述がある。〈「私たちの私」はほんとうに頼りなく、なにかひとりでする主体的な意思や決定などとうてい恥ずかしい、申し訳ないとおもってしまう、これが客観的に私を捉えられず否定的になってしまう私の根源にある恥だ〉。しかし書くこととは、少なからず、なんらかの意思を示すことである。だからこそ、「私」は書くことに「恥」を覚えるのかもしれない。しかしそれではなぜ「書く」のだろうか。「書く」ことが主体的な行為であり、そして、書くことが「恥」を伴う行為であるのなら。

「私の批評」の魅力は、「私/町屋良平」の「/」自体に揺籃を内包した「私」が、書くことに戸惑いを常に抱えつつ、手探りで「書くこと」を探るその手つきにある。だからこの小説ははっきりしない。「はっきりとした私」を持つ小説のようには情動的な展開を内包しない。情動的な展開を作るには、「はっきりとした私」が必要だ。その変容の様が物語の肝だからだ。「私」ははっきりしない。はっきりしないのは、その「私」自体を探る小説だからだ。そして、そんなはっきりしない「私」にとって「書くこと」とは何かを探る小説だからだ。

そんなはっきりしない「私」はオクタビオ・パス『弓と琴線』のこんな文章を発見する。〈小説は論証したり、物語ったりしない———世界を再創造するのだ〉。論証や物語るとは、この時、ある「事実としての世界」を前提/正とし、それを正確に語ることを言っているのだろう。とするなら、「再創造」とは、塗り直しとも考えられる。創造されているとされる世界をもう一度、そこに重ねて創造するのだ。

そもそも言葉でできた小説は、世界をありのままに表現することなどできない。だから「私」は、作家のIさんのマジックリアリズム観に「じいん」とする。〈彼の小説はマジックリアリズムと言われて、みんなマジックのほうに重きを置くんだけど、僕は違うと思う。やっぱりリアリズムなんですよ〉。「書くこと」は否応なく事実とはずれる、マジカルな営みである。しかしそのマジカルさに頼り現実からの離反に力点を置くのではなく、にもかからず/だからこそ、そのマジカルさによって現実をとらえようとすること―――その背反に向き合い続けることが小説の「リアリズム」だと語る「私」は、はっきりしない「私」に、虚構的な人物としての「私」や「町屋良平」や作者である「町屋良平」を重層させることによって、「私」を「再創造」しているのだ。すでに創造されてある「私」を、再創造することとしての「書くこと」。

反・私小説の「私小説」を「書く」「小説家の小説」


しかしなぜ「私」ははっきりしないのだろう。これは端的に、こうした「文学」にはあまり見られないような素朴さで、「私」の母と「私」の「愛着障害」のようなことに原因の一端あると「私」は分析している。母と「私」の関係の未成熟が、はっきりした「私」を「私」に持たせてくれない。だから〈私は私のするすべての判断に自信がないから、私と私間においてすら私は信頼しあうことができない〉と「私」は自分を顧みている。

「私」は別の「私」を、たとえば虚構的な人物である沼一真などの他者から借りることによって、「私」を〈捏造〉する。「私」を再創造することとしての「書くこと」を「私」に強いたのは、はっきりしない「私」で、はっきりしない「私」の、ボヤンとした空白に別の「私」を充填する。そうした時、「私」は、本書で頻繁にしようされる言葉―――「あんしん」を感じる。「私」と似た境遇を、「毒」親を描いた田房永子に感じた「私」は、そこに〈自分との共通点を見出し「なんとなくかなしい救われ」といった情緒につつまれる巨大安心と感動をどうじに味わう〉。巨大安心、あんしん、といった言葉は、子供っぽい。この子供っぽさにおいて、「私」は自身の母との愛着障害に由来する未成熟さをさらけ出している。

しかし、こうした愛着障害に由来する不安定な私とその充填の循環が、「私=町屋良平」として行われている点が非常に重要だ。ただこうした愛着障害をベタに書くのならそれこそ「私」が別の箇所で自虐するようにすこし文学くさいし、文学にしてはあまりに明白に書きすぎている、じつに中途半端な文章になってしまう。こうしたベタな自己開陳が機能するのは、この小説が「小説家」が書く「反・私小説の「私小説」」だからだ。

当たり前だが、小説には作者が必要とされる。小説は小説家によってだけ書かれているわけではないが、小説家によって書かれた小説は、なおのことその「作者性」が読者の読む行為の前提となる。だから小説の内容が、特に「私」と記載された時には、「私=作者」として誤認されることがママあるし、その誤認自体を制御することができないのであれば、そうした誤認自体を作品内に取り込む戦略が必要とされる。「書くこと」の再創造性は、こうした「私=作者」の誤認があればなおさらに、強烈に機能するだろう。ベタな自己開陳をすればなおのことその「事実性」が強調され、その「事実性」を力にして、「私」が生み出される(「町屋良平って大変だな」という作者自体への想いなども、「私」の生成に寄与する)。しかし注意すべきなのは、それが本当に事実であるかどうかが問題ではないということだ。「これは事実っぽいな」と感じるとき、その認知の瞬間に「フィクションの境」が設定される。言葉にするのは難しいが、その時その自己開陳は、「私=作者」と考える読者の読む行為によって、フィクション性の強いフィクション(とは?)よりもなおのことリアリティのあるフィクションになる。こうした操作によって、なにが起こるのか。事実/フィクションの境を揺るがす「私」がどんどん増殖していくのだ。

「私」は自身が小説家であることを、幸運だと思っているだろう。なぜなら、小説ほど、事実/フィクションを横断して「私」を増殖させることのできる芸術はほかにないからだ。「私」は「私小説」という「私」の増殖を加速させる技法を用いることによって、「私」と母の不和に基づく、「私」の空っぽさを、けっして埋めて無きにするのではなく、超克しようとするのだ。だから、「私」は〈母も小説家だったら私はよかった〉と書く。

反・私小説の「私小説」を「書く」「小説家の小説」としての「私」の批評


所与の「私」にさまざまな「私」を掛け合わせながら「書くこと」で、「私」は「私」を〈再創造〉しようとする。しかしそれは同時に、〈たいせつな私〉を他の無数の「私」と同列に扱い、無きにすることにもなりかねないだろう。ここに、この「私の批評」の、実存性が現れる。知的遊戯、あるいは単なる技法として、「私」の重層としての「書くこと」がなされているのではない。それこそ「私」が生きるために、それはなされている。

「自己とは他者である」という有名なランボーの成句がある。「私の批評」の文脈でこの成句を言い直すならそれは、「「私」は「私」である」というトートロジーに陥ってしまうだろう。前者の「私」はいわば容器としての「私」(以下「私A」)であり、後者の「私」はそこに充填される「私」(以下「私B」)。そこには、さまざまな「私」が充填される———母、沼一真、「私の批評」の「私」、小説家の町屋良平(このとき町屋良平自身もある種の虚構的な人物となっているだろう)。もしも知的遊戯として「私」を重層させていくなら、「私A」は単なる容器であり、「私A」は無数の「私B」が通り過ぎる通路でしかないだろう。しかしそれでは、母との不和に基づくはっきりしない「私」を、ただそのまま正当化しているにすぎない。だからここで「好き」という素朴な感情が重要になる。

〈批評とは生きることそのものだ。もし可能ならすこしでも「私」を好きになりたい。自己愛ではないかたちで、好きになりたい。批評の根源とは作品であれなにであれ対象を「好き」とおもう情動こそがその第一歩なのだから〉

だから自分が好きでもない「私」を、「私B」に充填してそこで満足してしまうことは避けなくてはならない。

〈混乱にまかせて私は「そういうフィクション」なのだとおさなくして私の「私」をフィクション化してしまった。つまり、私じしんが私にむかい、「世の中にはもっとつらいひとはいるよ」といいつづけ、私の感情を否定しつづけた〉

「私」とはフィクションである。しかしフィクションであるという自明の前提にあぐらをかき、「私A」をただの容器として考えてはならない。どうすれば「私A」をただの容器としてみなさず、その実存を救出することができるのか。それは、「ほんとうの私」を見つけることではないだろう。「ほんとうの私」を措定することはそもそもできるはずがないし、それができない理由を、「私」はなんども執拗に書いている。「ほんとうの私」があるともし考えられたとき、それこそが実はフィクションなのだ。そうして「あんしん」することができる。「私の批評」が「町屋良平」の自伝なのだとしたら、読者は「あんしん」することができる。町屋良平の「ほんとうの私」が描かれていると、作品の外部によって保証されるから。

空っぽな容器としての「私A」を前提としつつ、「私B」をそこに充填するだけでは満足するのではなく、なおかつ「私A」を肯定するためになされる———「私の批評」は「私A」を「好き」になるための「私」の批評を使って、「私」によって「私」たちが書かれる「私」の小説である。

反・私小説の「私小説」を「書く」「小説家の小説」としての「私の批評」の文体について


この時重要になるのは、この言葉だ。

〈あまりに無防備で生きてい、それがとうぜんで他者の社会性もぜんぶ演技でそれこそそういうフィクションなのだとおもっていた。だから恋はできても愛や信頼はまったくできなかったのだ。恋というのは他者に虚像を見ることであり、私は「私」も純に虚像なのではないかとうたがい、その嘘がバレることに怯え緊張しつづけている。愛とは他者のなかの「私」を信じることだ〉

これまであくまで「私」の中に他者がある、という書き方をしてきたが、ここではその主従が逆転し、他者のなかに「私」があると語られている。そして、他者のなかの「私」を愛することが、「私」を信じることだ、と。「私」を愛するために、「私」を愛そうとするというトートロジーを、この逆転は乗り越える。「私」を愛するためにと考えた時、否応なく思考の前提である「私」の、その道具として「他者」を使用するという思考が生まれる。そもそも「開始地点」が間違っているのだ。「私」を愛するために、「私」を愛そうとすること、そこには、開始地点も目的地点も「私」の閉域のうちに含まれる。しかし、「私の批評」で語られているのは、「私」の閉域などそもそも存在しないということであり、そんな閉域の幻想の外部に脱出するために「私」が持ち出すのが、小説の文体である。

小説の言葉は「曖昧で妥協的なもの」として語られる。〈小説とはなにか「書かれる対象」が、つまり物語やコンセプトやメッセージがあり、身の内にある段階の言葉は詩的精神として対象にぶつかる、その衝突体験が批判精神としてイメージを解し、はじめて小説の言葉としてあらわれる〉。つまり、詩的精神によって物語にぶつかったとき、それによって結実する言葉は、物語にも詩的精神のどちらにもおさまることのできない、「曖昧で妥協的な」存在のありようとして現象するということだが、もうすこしかみ砕くと、小説は物語であると考えた時、言葉は物語のための道具になる。小説は詩であると考えた時、物語は言葉の背景に消え失せる。小説は物語には飽き足らない言葉の余剰を抱えるし、どうじに、小説は詩に飽き足らない物語を要求する。もしも言葉の世界にだけ集中したいのであれば、詩を書けばいいし、物語を語りたいのであれば必ずしも小説を選ぶ必要はない。だから小説の物語は、詩的な洗練にも、ハリウッド映画のような機能的な物語の遂行にもゆきつかない。その「曖昧で妥協的な」ありようのなかで繰り出される、あるいは冗長でもあるような言葉こそが「私」は小説の文体として考える。

そしてこの文体には「言葉と私との妥協」が必要とされる。

〈それぞれに違う生を、それぞれに違う身体感覚を生きる人間の普遍に繋がれる「私」を「文体」意識をもって描く際には、言葉と私との妥協を是非とも要する〉

言い換えると、小説の言葉が、「言葉の世界」にも「物語の世界」にも安住することができないからこそ、その間の冗長さの余白に、小説は「私」性の介入を許す。しかし、「私」を「小説の言葉の世界」に入れ込むことは、「言葉と私との妥協」でもあるということだろう。これは当然そうだろう。書く「私」は書かれることで、言葉によって抽象された「私」へと変容/妥協することになる。そして、重要なのは次の言葉だ。

〈言葉に妥協された「私」であることでようやく読者の「私」と語り手の「私」は共鳴する〉

「私」は書かれるまでは曖昧なままだが、書かれることで読むことができる「私」になる。そうして「私」は分有可能な存在となることで、読者と交通することができるようになる。

小説の言葉は「曖昧で妥協的」な言葉だ。詩にも物語にもなりきれない中途半端な言葉だ。だからそこには、容易に「私=作者」の誤認を許してしまう。そのゆるさを逆手にとることで、「私」は「反・私小説としての私小説」として「私の批評」を書いている。そして、そのゆるさは同時に、書かれた「私」に読者の「私」が共鳴する余地でもあるのだ。

であれば、小説とは、現実/フィクションの境を横断した「私」の交通でもあるだろう。こうした交通こそが「社会」であると「私」は語る。だから、「私」の小説は「私」の閉域に閉じこもることはできない。否応なく「社会」と、その小説の条件において、通ずるほかない表現が「私」の小説なのである。そして「私」は文体が読者と身体を共有する行為でもあると語る。

〈「文体」は作家ごとの文章スタイルという以上に私とあなた、つまり作家と読者が共有しうる身体となって世界をともに見る。言葉を読み書きする交通によって、複数の身体を束ねうるその運動こそが「文体」なのだ〉

〈小説の文章は書き手と読み手がそれぞれに異質な集中を要請する。それは読者と著者の身体のあいだを絶えず揺れ動く、ふたつの違う身体感覚をもつ人間がおなじ風景をともにみるための読書という共同作業にて構築され、読後には消え去るしなやかな身体になる〉

その読者には、無論、「町屋良平」を含む「私」もまた含まれるだろう。むしろ、その読者を「私」以外の読者として限定してしまうと、「私の批評」がこのように複雑な構造を有していることの実存性の多くの部分が抜け落ちてしまう。書くことは、絶対者としての作者のコントロールに納まる行為ではなく、書かれた言葉が反射して、書く行為を促す。書く/読むの循環によって生み出されるのが言語表現であり、書く人とはその循環の結果としてその都度、生成される。だから、書く人と読む人はともに「私」であり、それと同時に読む人は「私」以外の読者でもある————この「私」/「私」以外の読者の分割自体を揺籃させること。

この揺籃を内包した読むことによって、「私」の文体が、「ほんとうの私」への還元を回避し、新たな身体をつくりあげる。「愛とは他者のなかの「私」を信じることだ」の「他者」とは「私の批評」における「私」でもある。その「私」とは、私小説の制度を借りることによって、現実/フィクションの境を超えた場所で増殖する「私」でもあり、読む行為によって生まれた新たな身体でもある。その時、「私」を愛することとは、「 「私」を愛するために、「私」を愛そうとすること閉域」の外に行くことができる。書かれた、増殖した、新たな身体となった、乗算された「私」とは、愛そうとする「他者」でもあるし、同時に「私」でもあるし、というか、もはやその分割自体が意味をなさないからだ。「私」を批評することによって、「私の批評」は、「私/他者」の「/」を破壊することによって、「私」を愛そうとする。〈自己愛ではないかたちで、好きになりたい〉。むろん、この「私」とは、作者のことでもなければ、「町屋良平」のことでもない。



私はこの小説に書かれていることの幾分かは本当だと思っている。この「本当だと思っている領域」とは、よく考えれば不思議なものだ。と、思っている時点ですでに私は「私」とフィクション/事実の境を超えたところのなにかを共有しているのかもしれない。


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