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大正時代に飛んだ飛行機たち

 前回の続きです。大正時代を生きた飛行機たちを、もう少し調べてみました。この時代は西洋文化を積極的に取り入れたハイカラな時代でしたが、それは飛行機たちも同じこと。輸入した西洋の飛行機と国産の飛行機が融合した和洋折衷の期間だったのです。


■民間定期便が続々と営業開始

 大正時代では日本でも初の民間定期便が1922年11月から行われます。
井上長一(1887〜1972)
という航空実業家という方が、大阪の堺に日本航空輸送研究所を発足、水上機による航空輸送路線を開設します。ルートは堺-高松線で週に往復3便で、運賃は片道40円でした。
 続いて、翌年には朝日新聞社による東西定期航空会が東京-大阪間で陸上機(中島式5 型複葉機)による定期航空輸送を、同年4月川西竜三(後の川西航空機の初代社長)氏による日本航空株式会社が大阪-別府間で(川西式水上機)による定期輸送を開始します。

中島式5型複葉機/練習機 (大正9年)
民間用で17機が生産されています。
川西K-7A型水上輸送機(大正13年)
 座席数6 民間自主開発時代の最高傑作機と言われています。
ドルニエ ワール飛行艇(大正13年)
全金属製艇体飛行艇で、昭和2年に再度輸入、瀬戸内海航路などに就航した。
金属製機体の製造方法に多大の影響を与えた。
ドルニエ コメット(初飛行は大正10年)乗客4名。
東西定期航空会の運行で旅客輸送に従事した。

 こうして民間航空3社が揃い、非公式の郵便貨物輸送から旅客輸送へと本格的に動き始めます。やがて国策会社の日本航空輸送会社設立への動きになり、戦時色が強くなってきた1939年には、大日本航空航空株式会社に統合され、実質上、軍隊の下部組織に組み込まれていくことになります。
 この頃の機体は、海外から購入したり、それを自社で生産してみたり、自分たちで設計して飛ばしてみたりと、正に和洋入り混じった感じでしたが、段々とそのノウハウが蓄積されていくと、日本オリジナル製が続々と開発されていくことになります。

1938年(昭和13年)に設立した大日本航空株式会社と
MC-20-I(一〇〇式輸送機I型)

 面白いなと思ったのは、下の図の白戸式37型複葉機。原愛次郎が高速度競技用に設計した白戸研究所最高の傑作機と言われています。
 この頃は民間で各種の飛行大会が行われ、政府は参加者に高額の賞金を与えるということで航空機産業の振興を図っていました。
 速度を増すために翼面積を減らしたり、翼間支柱を左右一対にするなど工夫をこらした。正にホームビルド機の手法により造られた自家用機といえます。製造は大正10年。最大速度は161km/h。

白戸式37型

■軍も航空機産業に振興を図っていた時代

 さて、民間機の方は盛り上がってきましたが、軍の方も同様に飛行機の可能性を痛切に感じ始めます。
 航空術研究所を横須賀市の追浜(おっぱま)に設け、操縦士たちの育成のための飛行訓練を開始します。
 大正5年には、海軍で最初の航空隊である「横須賀海軍航空隊」を誕生させました。さらに、陸上機と水上機の両方の訓練が可能である阿見を選定し、大正11年、阿見原(現在茨城県阿見町)に「霞ヶ浦海軍航空隊」を、霞ヶ浦湖畔には「霞ヶ浦海軍航空隊水上班」を開設しました。

大正時代の中島飛行機製作所本社

 このように大正時代は、官民一体となって、西洋文化や情報を積極的に取り入れ、航空機産業を盛り上げた時代でもあったといえますね。
 タイムマシンがあったらこの大正時代に住んでみたいです(^^)その時の空気感を味わってみたいですね。大正は15年と短いながらも激動の時代だったのだなと思います。

参考資料「変容する世界の航空界・その4 日本の航空100年(上)」酒井 正子著
飛行機の画像は「あいち航空ミュージアム」名機100選から


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