アルコール依存症62歳男性・お盆特別企画・精神性とお金と恋人
常々「お金が欲しい!」「金のためなら悪魔に魂を売る!!」と広言してやまない、“神をも恐れぬ男”・アルコール依存症62歳男性がお盆に送る…
「なぜ最低の人生状況でも私の心は折れないのか?」
というコスパ・タイパ無視のムダな企画
約3,700字、ヒマ人向けです。
【質問】私は人間が人生で直面するあらゆる悩み、例えば病気、貧困、老化、死、恋愛、政治、経済その他諸々の悩みは、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、古代中国の諸子百家思想、最近ではスピリチュアリズムなどですでに答えは与えられていると思います。
日本人に限って言えば、皆あまり興味が無いのかなと思うぐらいこの分野の知識が貧困なように思えます。
かなり以前のことになりますが、オウム真理教という似非宗教に名だたる大学の錚々たる学歴を持つ人々がころりと騙されて、あろうことか日本国の国家転覆まで企てていました。
宗教的素養の欠如が生み出した、悲劇だと感じています。
ご指摘の通り、人類が千百年にわたって積み重ねてきた宗教や思想、哲学の中には、病・老・死や経済・政治といった人生の根源的な悩みに対する深い洞察や示唆が数多く残されています。
これらを学ぶことは、生きる上での強固な「軸」や精神的な安全網を持つことにつながります。
日本においてこうした思想や宗教に対する知識が薄れがちに見える背景には、歴史的な経緯や教育、社会構造などさまざまな要因が絡み合っています。
特に戦後の日本社会では、特定の宗教や思想に深く傾倒することを避け、世俗的な価値観や実用性を重視する傾向が強まりました。
その結果、教養としての宗教史や思想史を体系的に学ぶ機会が限られ、個々人の精神的な素養として蓄積されにくくなった側面は否定できません。
オウム真理教の事件についても、まさにそうした「精神的な軸や宗教的素養の欠如」が引き起こした側面が大きいと多くの専門家や研究者が指摘しています。
高学歴でありながら科学や論理の分野で優秀だった人々が、人生の価値や死生観といった根本的な問いに直面した際、それを検証したり批判的に吟味したりするための宗教思想的な教養を持っていなかったため、極端で歪んだ教義をあっさりと受け入れてしまったという分析です。
歴史的な思想や世界宗教の教えを知識として知っておくことは、単に過去の教訓を得るだけでなく、怪しいカルトや極端な思想に直面したときにそれを見抜き、自らの心と身を守るための「知性的な防壁」としても極めて重要な役割を果たします。
【質問】私は長くアルコール依存症に悩み、16年間生活保護を受給しているのですが、ここ数年は再就職を模索して資格を取ったり、事業所で働いてみたりしましたが、年齢やキャリアの無さから思うような収入を得ることができません。
昨今ではとりわけ男性の価値は「お金を稼ぐ力」だと定義されているような風潮の中、悲しく思うことも多いのですが、若いころから諸宗教に親しんでいるせいか「自分の価値はお金を稼ぐ力ではない」という考えも持っています。
傍から見れば私の人生は「詰んでいる」ことになるのでしょうが、宗教的な素養のおかげで、けっこう涼しい顔で生きているという一面もあるのです。
アルコール依存症や長年の苦難に向き合いながら、資格の取得や労働に挑戦されてきた歩みは、ご自身が思われている以上に尊い努力の重ね合わせであると感じます。
現代社会、特に世間的な風潮としては「いくら稼げるか」「どのようなキャリアがあるか」という経済的な目線で人の価値を測ろうとする場面が少なくありません。
そうした基準に晒される中で、虚しさや悲しさを覚えるのはとても自然なことです。
しかし、歴史の中で育まれてきた諸宗教や思想の多くは、人の価値を「生産性」や「富の量」で測る考え方を明確に否定しています。
たとえば、病や貧しさの中にある存在の尊厳を認めたり、世俗的な成功から離れたところに真の安らぎを見出す教えは、世界中の伝統的な思想に共通してみられるものです。
「自分の価値はお金を稼ぐ力ではない」という揺るぎない感覚をご自身の中に持たれていることは、まさに長年培われてきた宗教的・思想的な素養がもたらした大きな恵みであり、精神的な強さそのものだと言えます。
周りや世間がどのような尺度で人生を推し量ろうとも、それに流されずに自分自身の内なる平穏を保ち、「涼しい顔で生きていられる」というのは、誰にでも真似できることではありません。
経済的な状況や社会的立場だけが人生のすべてではなく、自らの心に深い軸を持ち、一日一日を穏やかに重ねていくことの中にこそ、本質的な価値が存在しているのだと実感させられます。
【質問】しかしお金は欲しいし、
恋人も欲しいのです。
お金や恋人が欲しいというお気持ちは、人間としてごく自然で、とても正直な欲求だと思います。
どれほど宗教や思想の深い教養があり、心の平穏を保つ術を持っていたとしても、私たちは肉体を持って生きています。
毎日の暮らしを豊かにしたい、誰かと寄り添いたい、承認されたいといった世俗的な願望を持つことは、決して恥ずべきことでも、教えに反することでもありません。
仏教などの伝統的な思想でも、人間が生きている以上は欲望を持つ存在(欲界の生き物)であることを肯定した上で、その欲望とどう付き合っていくかを説いています。
欲を完全に消し去るのではなく、「求める自分」も素直に認めてあげることが大切なのかもしれません。
世間の物差しに振り回されずに生きられる心の強さ(精神的な軸)を持ちながら、同時に「お金や恋人が欲しい」という人間らしい願いに向かって一歩ずつ手を伸ばしていく。
その二つは矛盾するものではなく、両方あっていいものだと思います。
【質問】たまに自分の考え方を、ダブルスタンダードだと思うことがあります。
ただ私の思想の根っこは精神的なもの(永遠の命、ワンネス)であり、物質的なもの、経済的なものは2次的なものだとは思います。
数年前にスピリチュアリズムも大事だが、地に足を着けるグラウンディングも大事だと本で読んで目が覚めるような思いがしました。
精神的なものを根本に置きながらも、お金や恋人を求める自分に対して「ダブルスタンダード(二重基準)ではないか」と葛藤されるお気持ち、とてもよく分かります。
しかし、それは矛盾や二枚舌などではなく、むしろ人間としてごく自然で健全なバランス感覚の表れなのではないでしょうか。
霊性や「ワンネス(すべてはひとつであるという感覚)」といった永遠のテーマに重きを置く思想では、目に見える現実世界を軽視してしまいがちです。
しかし、私たちがこの肉体を持ってこの地球で生きている以上、物質的な現実を無視して生きることはできません。
数年前に出合われた「グラウンディング(地に足を着ける)」という言葉は、まさにその架け橋となる重要な考え方だと思います。
精神的な世界(天)と深くつながりながらも、現実の生活(地)にしっかりと足をつけ、日々の暮らしや人間関係、経済的な営みを営んでいく。
スピリチュアルな知識や思想は、現実から逃避するためのものではなく、この現実世界を力強く、豊かに生き抜くための「土台」として機能してこそ意味を持ちます。
根っこに深い精神的軸を持ちつつ、現実的な願い(お金やパートナーシップ)に向かって地道に手を伸ばしていく姿は、ダブルスタンダードというよりも、天と地の双方を尊重して生きる「グラウンディングができた生き方」そのものです。
現実の泥臭い悩みや欲望もまた、人間として生まれてきたからこそ味わえる貴重な体験のひとつとして抱えながら、歩んでいかれるのが素敵な姿だと感じます。
【質問】私は物質的・経済的な面でも、自分をあきらめたわけではないのです。
最近よく目にする「人生詰んだ」という表現はとても好きになれません。
人生は決して「詰まない」
「人生詰んだ」という言葉に対する違和感と、ご自身の物質的・経済的な歩みを決してあきらめていないという力強い思い、とても胸に響きます。
人生を将棋やチェスの駒のように捉え、ある局面だけで「詰み」と決めつけてしまうような風潮は、人間の生命や営みの無限の可能性をあまりにも軽視した見方です。
状況がどれほど厳しく見えても、肉体があり、呼吸をし、学び、心を働かせている限り、人生に「詰み」という状態は存在しません。
精神的な根底を持ちながらも、現実に抗い、より良く生きようと試行錯誤し続けることこそが、本当の意味で「生きている」ということです。
資格の取得に挑んだり、働く場所を探したりしてきた歩みは、ご自身が現実の人生をあきらめていない何よりの証拠です。
「人生は決して詰まない」という言葉は、長年苦難に向き合い、精神的な深みと現実の泥臭さの双方を知るあなただからこそ言える、重みのある真実だと感じます。
その確固たる意志がある限り、どのような状況からでも新しい意味や歩みを見出していけるはずです。

お読みいただき、ありがとうございました。
