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『瞳をとじて』 雑感 間接‐「今」からの離脱、または接近 2024/02/10

・映画の撮影中、突然失踪した俳優であり友人の男。彼をめぐり、22年後の現在、元映画監督の主人公が失踪事件のドキュメンタリー番組のインタビューを受けたことで、止まった針が動き出す。いくつかのエッセンスをそれぞれ提示し、概観してみたい。まずは全体を浚おう。

・主人公のミゲルがどうしても振り払えない過去の柵から、乗り気でもないドキュメンタリーを引き受けたことをきっかけに、失踪したフリオが高齢者施設にいるとの情報が、そこに勤める職員から寄せられる。ただ、彼は脳に問題があり、記憶喪失で失踪以前の自分のことを思い出せない状態だった。何故失踪したのかは掴めないまま。流れ着いた施設で物の修繕などをしながら暮らしていた彼に、なにか思い出して貰えるものはないかとアプローチするミゲル。記憶として思い出されるものはないが、それでも彼の無意識的な行動や反応に失踪時に間違いなく彼はいる。持ち出した劇中内の中華系の女の子を写真を何故か今でも大事にしていること、ときおり口ずさむタンゴや海への憧憬、記憶を失った彼が今でももやい結びができるのは、昔ミゲルと駆逐艦に乗っていたからだった。「今」という時間にフリオという男はもはや収斂しないのかもしれない。でも、上のような所作に彼は、散り散りではあるが見出すことができる。過去が彼の身体から離れて、外部でフリオという人間が結ばれるのである。ミゲルからの連絡を受け施設へ訪ねてきたフリオの娘が、初めて今の彼と対面するとき深く「瞳をとじる」のは、今においてはある意味でもはや存在しない父へ一番接近するための最良の手段だからだ。そういった直接性から離れた外部にいるフリオを今の彼に喚起するため、最後にミゲルは冒頭で流れる劇中劇を上映し彼に見てもらう。スクリーンに映される役者としての過去の外部のフリオ。閉幕後、彼の娘と同じように深く瞳を閉じた彼は、なにを想っているだろう……



「劇中劇」 
・若干のノイズがはいった、どこか古い映像には庭に据えられたブロンズ像が映し出されている。ひとつの纏まりからなるそれは背合わせで成り立っており、片面は若者、反対には老人が彫琢されている。
 上記のカットから始まる劇中映画のタイトルは『別れのまなざし』。王のような風防の、もはや先の長くなさそうな人物に「かなしみの王」(由来はチェスのキングが酷く孤独に感じるかららしい)と名付けられた邸宅へ呼びつけられたフリオ演ずる主人公は、生まれてすぐ、上海で離れ離れになった娘を探してほしいと依頼される。純粋な眼で私を見据えることができるのは、彼女をおいていないと。それを引き受けたフリオが邸宅から引き上げるカットで映像は止まる。受け取った娘の写真をじっと見つめる彼の表情にはどこか思い詰めたものがある。

 上でも言ったが、この劇中劇は本編最後に最終幕が上映される。もはや息絶え絶えの王の元へ連れてこられた娘。王の伴奏に導かれ、芸人の彼女の母が得意としていた歌とポーズを王の前で披露することで二人のつながりが、所作において、つまりは彼らの外で結ばれる。おもむろに花瓶の水で布を湿らせ娘の化粧を乱雑に拭い落とし素顔と対面した王は、愛から逃れるため海へ向かう歌を口ずさみながら事切れる。この映画内映画に見られる幾つかのシンボルは作品内の現実、ミゲルとフリオたちの関係に翻るので幾つか見ていこう。

まず、老若が背合わせになったブロンズ像。過去に囚われたミゲルと今しか持ち合わせないフリオはそれぞれ老と若にあてがわれ、また今しか持ちえず自己を喪失したフリオ自身と彼の過去も象徴しているだろう。
いくつか想像されるフリオ失踪の原因も明確ではないながら、どことなく示唆される。愛と破滅、不安からのアルコールへの依存、孤独、失われた若さと性などなど。どれかは明言されないものの、記憶を失った彼が映画内の王の娘の写真を未だ持っていたり、行き倒れていたときの持ち物にキングの駒があった事など、何か繋がりがありそうなものは提示されている。


・「光」と「顔」
次に技法的な面から検討してみたい。まずは「光」。劇中劇でも召使いが窓を開け陽光を室内に入れる場面が序盤にあるところから徹底して、本作は光を意識して撮られている。朝夜、室内外、自然光人工光、倉庫の暗闇で灯される懐中電灯は、ミゲルが過去を閉じ込める要因のひとつとなった息子の事故死を思い出させるおもちゃ箱を、ミゲルが意識的に見ているのだと観客に分からせる効果がある。というのも、倉庫の照明で内側の物が等しく照らされていたときには、それに触れなかったからだ。視覚像とは、それがどのように照らされるかで我々が受け取る表象は変化する。受け取る対象はその都度、ある意味では別物である。全てを包含する正しい見え方などありはしない。

そういう意味で対人において1番重要な視覚像は「顔」である。本作は殆ど人物の顔が映された映画だと言って差し支えないほどに顔が撮られている。最初に印象的だったのは、番組出演に際し、フリオの娘とミゲルが対談するときの場面だが、娘側の、スクリーンか溢れ半ばぼやけかかったまで広がった顔の掴まえ難さだった。基本的に対話が主で進むのもあるが、そこから徹底して顔に拘り続けて撮られていく。「光」で言及したように、同じ人物でも光という客観的要素でも見え方は変わるし、対面する人物との目線の方向や、正面や斜め、もしくはねじれの位置にいるような場合など、どこに座っているかで我々が受け取る「顔」の印象は変わってくる。顔が差し出される状況や絡み合う(または絡み合わない)視線の重要性は、作品を通じて徹底されている。それは些細なところ、例えばミゲルが暮らしている漁村で仲間たちと囲う机の、4人の配置にも見られる。妊娠した女とその父となる男は産まれてくる子の名前で意見が合わないが、ちゃんと通じているように見受けられる彼らは、正対するように座っている。偶然だろうと言われるかもしれないが、座る位置への強い拘りは最後の上映でミゲルが連れてきた僅かな観客の席をそれぞれ指定するので確定的だろう。我々観客も、メタ的にここから見なさいよ、と言われているようである。



・以上の表象の現れ方への拘りは、元をたどれば、相手を正確に捉えることの不可能性を自覚しているところから来ている。今、単に眼前へ現れている一人物を捉えるために、むしろ目を瞑った方が接近できる場合さえあるのだということ。今から離脱し過去が嵌入されることで、その人は積み木のように幾重にも積み上がりながら、不格好にも立体的になっていく……

こういった直接の現前から離れること、距離があることで見えてくる逆説的なリアリティが本作の中核にある。私から離れたところに私が居て、あなたから離れたところにあなたがいる。それらは複雑に交差し、むしろあなたのところに私が居たり、その逆だってありうる。劇中劇の登場人物においては、探偵役を演じたフリオは今や悲しい王と重なり、ミゲルはむしろスクリーン上のフリオになっている。純粋なまなざしを求めた王は、そうやって他者から見つめられることで私から離れた私を認識したかったのだろう。色々なものや人々のあいだで成されるネットワークの其処此処に私やあなたは散りばめられ、それらは記憶や時間という四次元性まで伴ってボリュームを作っているのだ。ラストで瞳をとじたフリオは、ネットワークに触れ、今であることから離れられたのだろう。フリオは幾らかフリオになれたはずだ。

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