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『急に具合が悪くなる』雑感 「斜めに 無軌道に そして鳥のように(いや、われわれは地に「足」をつけて)」

・私たちはふだん歩道を歩いているさい、基本的には通行する車がこちらに突っ込んでくるとは考えない。それは、社会生活を営む人間が交通ルールを守ると信じているからである。いや、そこでは信じるという能動性は欠落しているから、思い込んでいるといったほうが正しいだろう。これに限らず、多くが無意識的に受け入れている現行の「構造」は、その構造が機能しているように見えるあいだは力を持ち、採用されるべき論理的必然性のなさ、つまりは他であってもいいということ――「偶然性」を韜晦し、「当たり前」として存在している。

 本作はそれを象徴するものの一つとして資本主義経済が議論される。自然や弱者、未来といった外部を貪り、「いま」上手くはたらいているようにみせる、打倒すべきウロボロスとして。それに抗う過程で不眠症に陥っているマリー=ルーでさえ、そうやってオーバーワークすることで資本主義を支えてしまっている皮肉がある。 
 ただ、これを任意の一つだといったのは、その奥には冒頭で言及したような、もっと巨大な「構造そのもの」があるからである。一つの構造が機能しているとき、それは巧妙に外部を、他の可能性を排除するようにはたらきかける。余白はなく、遊びは許されない。動くことができるのは、構造が引いた無機質で直線的な縦横のライン上だけだ。多くの映画だってそうだ。ある程度の物語が構築されていくなかで可動範囲は削られ、着地点は自ずと狭まっていく。予測から強くはずれた表現や物語はストレスとなり、想像力をはたらかせられない人々からは、多く顰蹙を買いがちである。

 この問題を中核のひとつに置く本作をポスト構造主義的だというのは、極めて簡単である。ただ、この思考スタイルがもつ困難さは、構造を認識解体するだけして「実践」の段階があくまで観念的なものにとどまっているのが多いことにみられる。「実践」はあまりに難しい。「構造」を完全に離れてわれわれは思考し得ない。だから、構造間を緩やかに飛び回るための羽(暫定的な足場としての弱い構造)を持つには、「構造」を突き崩しながら別のありかたを探してそのつど「実践」していく、脆さと軽さを持たねばならない。しかし、これは基本的に見通しの効く単純で強固な「構造」に負けてしまう。思考を節約するためのオートメーションシステムをわれわれは求めるのが常だからだ。そこへ分かりやすい「量」の尺度のみが持ち込まれれば、マジョリティがマイノリティを喰らう、技術があり力のあるものが弱者を食い物にする資本主義という化物が誕生するわけである。本作の舞台である介護施設の問題も目先の効率化を優先し、よりよいかもしれない別の可能性へ賭けることの困難さが先鋭化している。
 それはリスクだ。外部は通常とは違う。内側から見ればいわば狂気である。歩道に突っ込んでくる車のように。ただ、劇中劇で五朗は言うだろう。「近くで見たらだれもまともではない」と。


 これらポスト構造主義的で成し難い実践は、しかし、主人公ふたりの準備された偶然の出会いによって、ラストシーンにひとつの可能性としての奇跡的な「起こり」として提示される。 

 真里がひらいたワークショップと、彼女の演出した劇がマリー=ルーの奮闘する「自由の庭」で上演されるとき、重度な自閉症をもつ智樹の「構造」を横切る無軌道な身体が起点となり(冒頭、斜め下に落ちていくカメラやふたりのマリが出会い階段を斜めに降りていくシーンはその横切りを予期している)、想像だにしない光景をみせる。まさに「実践」された芸術である。そして自身の創造(芸術)がもつ価値の現前するさまを見た真里の最後の言葉──一度はマリー=ルーに遮られた「それ」──が発せられたとき、わたしは胸がいっぱいになってしまった。生の価値をみた瞬間、思考がまとまるよりも先、身体が涙として作品に反応した。会話劇の様相もつよい本作は、言葉によって敵を見据えるものの、最終的にそれを打破していくのは言葉を超えた「身体」である。思考は可能性を開き、身体が暗中模索するなかで掴む一筋の光である「偶然性」。「今」と「過去」そして「未来」が絡み合う身体のように混濁する「偶然」という時間のありようは、思考によって準備され、能動的に待たれ、身体によって急に開かれるのである。
 映画はあくまでフィクションである。もちろんそうだ。しかし、これは一つの考えうる(と、本作が理解されたときには示されてしまっている)が凡人のわたしでは思いもつかない奇跡的な偶然であり、それを拒絶することは受け取ったものには不可能な可能性である。このシーンに魅せられたものは、あの可能性を信じないわけにはいかないだろう。なんという強烈でリスクもあるhumanitéか。

 

・身体についてもちゃんと確認していきたい。身体は本作において対話についを成す、もう一つのキーである。老いた身体、疲れているのに眠れない身体、がんで死にかけの身体。病気は肉体を意識させるといったのはトーマス・マンだったか。なんにせよ、身体はときにことばよりはるかに雄弁である。
 ところでわたしが本作をみているとき、身体についていちばん驚いたのは、足のマッサージが作品に持ち込まれるとき、ひとは足先まで「ひと」なのだ!という、身体認識である。病気になって初めてその箇所が自分の身体にあったのだ、と再認識する感覚。ふだんわれわれはひとを見るとき、多くは顔を注視し、いわば身体のすべてがそこにあるように錯覚する。これもひとつの構造への囚われである。西洋では日本より強く不浄だと捉えられるだろう足を揉み合うマッサージでの交歓が2人のマリから認知症入居者へ持ち込まれたとき、あのラストのHappening(まさにその原義hapは偶然を示す)に際して、ユマニチュード(ユマニチュードさえ一つの構造である。それを突き崩し先へ拡げるのが真里のワークショップだ)を含めたケアによって拡張された認識のネットワークが、共生的に人々へはたらきかける。劇中劇の五朗が重ね合わせた椅子たちのように、上下左右なく支え合う人々の身体。近寄ってきた五朗を仰向けで見上げるマリー=ルーの表情は澄み切っている。みているものは身体のもつ重さと温かさ、型から外れた動きの自由さが画面から伝わってくるはずだ。意志することのみでは達成されない金字塔がここに建立されている。


 多くの場合、意志とは、ひとつのつよい未来を志向し、他の可能性を排除する隘路となる。バーンアウト寸前のマリー=ルーがその具体例だ。意志によって無理をし、苛立ち、喫煙が増える。そうではなく、知をめぐらし、ある程度の企図はもちながらもできる限りの可能世界に反応する身体を準備しておくこと。これこそ最高の可能性である「偶然性」へ反応するためにわれわれができることであるし、「意志」はそうあるべきである。それは部分的に狂気へ身を浸し、力のある「構造」の外部で佇むことだ。脆く反応しやすい「弱さ」にとどまり続けるという「強い弱さ」*¹。これを持っていたからこそ、マリー=ルーは彼女と真理を結びつけるトモキへ反応できたのであり、真里は自分の演劇が世界に影響をもたらす瞬間を目撃できたのである。夜明けのセーヌ沿いの散歩でされるこの確認が、本作の集大成である最後の演劇を完璧に意味づける。この映画はここにすべてがあるのだ。 

 ラストシーンで船を漕ぐマリー=ルーは強い意志を放棄している。彼女は自分の身体に身をまかせ、それが求めるままにしている。見事に準備され脱力する意志の抜けた身体。そこにはもう一度、真里との魂の分け合いのような偶然が降りかかると、鳥が糞でもって再び指し示してくれるだろう。散骨された真里の「身体」(あえてそう言おう)が、予期せず風に押し戻されて五朗と智樹に若干降り掛かってくるのも、あまりに甘美である。

 
 この鳥というモチーフは、構造を(もはやそれがないものとして)自由に飛び回る象徴として映画内に何度も登場する。主人公2人の会話を遮る鳥、起き抜けの真里の部屋へ舞い込んでくる鳥、エンドロール前のそれはやりすぎなくらいである。象徴表現はときに強く構造的だ。しかし、あの偶然の瞬間に立ち会ったものは、それさえ一つの要素としてメタ的に飲み込めるだろう。わたしたちは鳥のように自由に飛ぶ翼はもたない。ならばいっそ地を素足で感じ、寝そべって相手の身体に触れ合い、絡み合ってみたい。人間にできるこの通常から外れた身体の動きは、逆説的な飛翔となる。劇中劇の冒頭で成される五朗の身体の使い方や、自閉症である智樹の予測できない動き、認知症のひとびとの身体はここに集約される。私たちは彼らの身体に可能性を教わるのである。


・またメタ性で考えると、そもそも映画を作るうえでの濱口竜介監督のメゾッドが偶然性を確保するように成されている。ご存知のように『ドライブ・マイ・カー』でもなされているジャン・ルノワールのような本読みと、演技は当日までしないという方針だ。なにが生まれてくるのかを強く予期せず、しかし準備し待機すること、出てきた瞬間を捕まえること、そして、演劇とは違い、どこまでも必然性に依拠してしまう映画の立脚点を偶然の方へシフトしていくこと。彼が『急に具合が悪くなる』という偶然性を扱っていた哲学者の書く往復書簡に惹かれるのは必然であっただろう。


・音楽面でも偶然性は表現されている。冒頭の優しげでありながらどこか不穏さも感じる劇伴や劇中劇で観客が自由に鳴らす楽器や休憩中にジブリルが口ずさむラップがそうだ。中でも感動したのはエンドロール中に流れる音楽である。劇中劇のさなかに鳴る、音楽にもならないような楽器たちのまとまりない音をどこか保ちながら、それは脆くも、しかし、調和的に響く。あの瞬間を反映させた見事な楽曲である。恥ずかしながらここでも涙してしまった(笑)。


・撮影の時間帯が未明や夜中、夕暮れどきなのは、「弱さ」の表現になっている。終わりかけの時間にいる真里。先の見えない窮地に立たされたマリー=ルー。いやそれはこの世界の現状なのかもしれない。それを打ち破れる一つの可能性である劇中劇が昼下がりに公演されるのは、極めて意識されているだろう。弱ったホタルのように夜更けに灯る、タバコ先の橙ほどの希望。でもその先にはあの美しい朝焼けが待っているかもしれない。
 

・19世紀末に開発された自動車が走り出したときはルールなどなかった。その普及と問題によって様々なルールが制定、整理され、われわれが内面化し「構造」が形成される。ひとつ構造が問題になったとき、わたしたちはその構造ができあがる場所に立ち返らねばならない。芸術でもスポーツでも政治でも何でもそうだ。それを認識し見据えそこから飛び立つこと。そのためにはふたりのような知性と身体による「実践」の先に待つものへの準備が必要なのである。



・ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』にある「精神の変容」の3段階は、この映画と軌を一にするだろう。駱駝から獅子、そして子供へと変遷していく超人への過程は、マリー=ルー、真理、そしてラストの演劇での戯れと対応する。子供がもたらす「ひとつの戯れ、第一運動」は、重荷を背負い自由の場を設えた先におとずれる偶然性によって、初めて可能となる。
 
 




*¹この表現は堀江敏幸氏の『河岸忘日抄』から借用している。



 

 

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