3月9日 脈の日 【SS】黄泉の国から
日々設定してある記念日の中から一つを選び出して、その記念日から連想した内容でショートショートを綴ってお届けしています。今日の選ばれし記念日はこちら。
【今日は何の日】- 脈の日
脳卒中に関する正しい知識の普及と予防、患者の自立と社会参加の促進を目的として、大阪府大阪市を本拠に活動する公益社団法人・日本脳卒中協会が制定した日で、「みゃ(3)く(9)」(脈)と読む語呂合わせから決められた。不整脈の一種である心房細動が原因で起こる脳梗塞は死亡率が高く重い後遺症を残すことが多い。しかし、適切な管理をすることで脳梗塞の約6割は予防できることから、その予防法の一つとして脈のチェックを呼びかけることが目的だそうだ。
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【SS】黄泉の国から
「健康を維持できているか確認するために毎朝の脈診をお勧めします。左手首の付け根に右手の人差し指と中指の二本を当てて、脈のリズムを確認してください。一定間隔で同じ強さを感じられれば、一分間の脈数が多少高くても一定のリズムが確認できていれば問題ありませんよ。そうではない時はすぐに病院に来てください」
最近、心臓が時々ドクドクすることがあり、心配になった正志は病院を訪れていた。毎年人間ドックにも入り、身体中の点検も実施している。年齢も七十歳を過ぎて、特に仕事もすることなく日々を過ごしているので運動不足も気になっていた。それに毎日飲んでいるアルコールも気にはなっているが止められないでいた。医者のアドバイスを受けて、朝起きた時に自分の脈を測る習慣もついている。
ある日、天気のいい冬の日の朝。いつものように散歩に出かけた正志はあまりの寒さに身震いをしながら『習慣は一日休むと止めたくなるから頑張っていこう』と自分を励まして出かけた。冷たい空気が肺に入るとキューっと締め付けられる感じがするくらい寒さがこたえた。公園まで歩いていった時、突然目の前が真っ暗になり立っていられなくなった。そして糸が切れたマリオネットのようにその場に崩れ落ちた。
正志の周囲には、何人か朝の散歩に来ている人がいた。正志が倒れた時、みんな一様に驚き、駆け寄ってきてくれ声をかけた。
「大丈夫ですか。聞こえますか。しっかりしてください」
正志は聞こえてはいたが体が動かない。そしてだんだん意識が遠のいていくのを感じていた。駆け寄ってきた中の一人が正志の脈をとって静かに言った。
「早く救急車を呼んでください。すでに脈がありません」
そんな周りの言葉も正志には聞こえていた。しかし、何かおかしい。正志には自分が横たわっている姿も見えていた。同時に、遠くに美しい景色も見えてきた。
「もしかして、私は死んでしまったのか。それにしてはちょっと感覚が変だな。まだ黄泉の国に行っているわけではないようだ。一体どうなっているのだろう。救急車のサイレンが遠くから近づいてくる音も聞こえている。同時に遠くの美しい景色が呼んでいるような気もする。この辺りでは見たこともない景色だ。耳障りなサイレンの音を避けるように美しい景色に向かってフワッと体が動いていったのはなぜだ。やけに体が軽い。全く体重を感じない。宙を移動しているからだろうか。それとも体がないからだろうか。どうしても今の自分の状態が受け入れられない」
しばらく歩いていると、いや飛んでいると言った方が正しいような気がするが、要は美しい景色の方に移動してきたわけだ。そこは小さな川のほとりだった。一体何処だろうと考え、正志はハッとした。
「この川の向こう側は黄泉の国なのか。やはり私は死んでしまったのだ。まだその覚悟はできていなかったのに」
川の向こう岸には何となく見覚えのある顔の人たちが見えている。どうやらすでに亡くなっている親族や知人のようだ。こっちを時折確認するように視線をおくりながら、何か喋っている。だが聞き取れない。正志は向こう岸に行く気はまだないようだった。そう思った瞬間、何かもの凄い強い力で後ろから引っ張られ、川のほとりにいたのに一瞬で元の所に引き戻された。
「よし、脈が戻ったぞ。AEDの威力はすごいな。あとは救急隊に任せよう」
正志を取り囲んでいた数人の人々が嬉しそうに話をしている。救急車を呼ぶのと同時に近くのビルからAEDを持ってきて、経験のある人が正志に対し電流を流し心臓にショックを与えたのだった。そして脈が戻った。同時に救急車も到着し、正志は手際よくストレッチャーに乗せられた。それまで自分で自分の姿を見ていたはずだったが、急に何も見えなくなり目の前は真っ暗になった。何となく、元の体の中に戻ったような感覚だった。途端に息苦しさを感じた。
病院について医師は、血管内に血栓ができていると判断しカテーテルで血栓を除去する手術を行なった。数時間後麻酔から目覚めた正志は、自分の体の中にいることを確認し、不思議な体験を思い出していた。目の前には担当医師がいた。
「目が覚めましたね。お帰りなさい。あなたは死の縁まで行って帰ってきたのですよ。原因は血管が寒さのために縮んでそこに血栓ができたためでした。でももう大丈夫ですよ。血栓は除去しました。今はゆっくりとおやすみくださいね」
正志の目からは一雫の涙が流れ出て頬を伝って落ちた。傍には、涙でいっぱいになった瞳でじっと正志を見つめる愛する妻の姿があった。
「あなた、お帰りなさい」
「洋子、ただいま。心配かけたね」
了
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