『無間天國』 最終話 階段


最終話 階段
ロキは雪道を、一歩、また一歩と進んでいた。
胸元のポケットに手を入れる。
取り出したのは、一通の手紙だった。
何度も読んだはずの文字を、もう一度見直す。
『ロキへ。
お元気でしょうか。
恐らく、あなたがそばで接している中では感じることは少ないかもしれません。
けれど、あの人は子供なの。
自分の言いたいことを素直に言えない。
自分の欲しいものに、素直になれない。
私はきっと、もう会うことはないでしょう。
だから、あなたにお願いしたいのです。
すぐそばで、レカロが間違わないように見守っていてほしい。』
そう記されていた。
私は、「見守る」ということを、制度を見守ることだと思っていた。
彼が信念としている人格転写制度を完成させること。
普及させること。
それを頼まれたのだと思っていた。
だが、アンヌを見て、
違う意味だったのかもしれない。
そう思えてきたのである。
手紙の送り主は、レカロの妻。
半世紀に近い時間、レカロと離れて暮らしている女性からの手紙であった。
政府官邸への道のりは長かった。
官邸に着き、階段をこつこつと上がっていく。
一段上がるたびに、命が削れていくような心地がした。
廊下を歩き、レカロの部屋の前へたどり着いた。
深く息を吸う。
ノックをする。
「入れ。」
レカロの声とともに、ロキは部屋へ入った。
「ブレッダ家三名の処理を完了いたしました。三名とも死亡を確認済みです。」
「ほう。」
レカロは机の奥で、静かにロキを見ていた。
「なぜ憲兵隊には見せなかった。」
「外傷が激しく、見せられる状態にはございませんでした。」
「嘘だな。」
レカロは即座に言った。
「お前が子供相手に手こずるはずもない。」
ロキは動かなかった。
「ロメル・ブレッダとベルジア・ブレッダの死亡は確認したと、憲兵隊から聞いている。」
レカロの声は静かだった。
「アンヌを殺さなかったな。」
ロキは黙った。
恐れもあった。
違和感もあった。
自分は今ここで殺されるかもしれない。
ただ。
アンヌを殺すことは、正義なのか。
黙って押し殺そうとした。
だが、つい身体から溢れてきた。
「アンヌを殺すことは、できませんでした。」
「なぜだ。」
「分かりません。」
ロキの声は震えていた。
「咄嗟に、できませんでした。」
「あの子が目の前にいて、あの子を殺すことが、正義だとは思えなかったのです。」
レカロは椅子に深く腰掛けた。
「誰も彼も、似たようなことを言う。」
「なんとなくとは。」
「なんとなくとは何だ。」
レカロの声に、わずかな怒気が混じった。
「アンヌが制度の妨げとなり、人格転写制度の一般普及が届かなかったとしたら、それは正義だというのか。」
「お前の気持ちも少しは分かる。」
「痛いげな少女を殺すのは、あまりに残虐だったかもしれない。」
「だが、その引き金を引かなかったことで、お前は何人もの子供を、何人もの成人を、何人もの老人を殺したのだ。」
「そうは思わないか。」
「お前は、人が正しく生きる道を閉ざしたのではないのか。」
ロキはレカロを見た。
閣下は、こんな人ではなかった。
少なくとも、私を拾ってくれた時には。
「ロキ。」
レカロは問うた。
「正義とは何だ。」
ロキは言った、
「ひとを
人を、
そのままに、
愛し
一身に受け止めること、
に、
思います。」
今にも震えが止まらなかった。
だが、もっと震えていたのは、閣下の方であった。
何かを隠そうとするかのように。
ロキは、思わず言った。
「閣下は今、守りたいと思う人はいるのですか。」
レカロは黙った。
「奥様は。」
「奥様は――」
その時だった。
別の部下が、部屋へ駆け込んできた。
ロキに耳打ちをする。
ロキは息を呑んだ。
そして言った。
「奥様が危篤です。」
初めて見た。
閣下が、あれほど動揺する姿を。
「すぐに出発せよ。」
部下にそう命じる声は、いつもの閣下のものではなかった。
先ほどまでの話など、もうどうでもいいと言わんばかりに、閣下は私を押しのけ、部屋を出ていった。
――――――――――
レカロは急いでいた。
あまりにも焦っていた。
馬車を乗り継ぎ、乗り継ぎ、道に通行人がいればそれをのかし、
「進め。」
「進め。」
と、ただ命じた。
なぜ今なのだ。
なぜ。
レカロは、自分の頭がうまく働かなくなりつつあるのを知っていた。
「閣下、次の転写を受けられますか。」
研究施設の者から打診を受けていた。
だが、そんなことはどうでもよかった。
今は急がなければならない。
今は早く。
制度を試し、欠陥を洗い出し、一般へ普及させねばならない。
転写を受け、数週間たりとも動けなくなる時間は、レカロにはなかった。
妻は隣町に住んでいた。
半生ぶりほどに見るこの景色。
馬車が止まると、レカロは急いで降りた。
家の前で、一瞬だけ立ち止まる。
だが、それも間もなくだった。
急いで扉を開ける。
そこにいた。
最後に会った頃の、あの時の妻がいた。
「君は転写を受けたのか。」
レカロは息を乱しながら言った。
「あれほど何度も受けろと言っても受けなかった転写を。」
そう言って、レカロは妻の手を取った。
二人が触れ合った時。
妻は八十代の老婆の見た目になっていた。
レカロの目が潤んだ。
「君は何一つ変わっていない。」
「変わっていない。」
「だが、美しく、愛しい。」
「君がいれば。」
「君がいれば……。」
妻はレカロを見た。
そして静かに言った。
「あなたは、変わらず美しいのね。」
レカロは息を呑んだ。
「今からでも転写を受けないか。」
「君の精神データは保存してある。」
「今からでも遅くない。」
「君は生きられる。」
「若返ることもできる。」
「ともに生きよう。」
「ともに。」
「頼む。」
妻は静かに微笑んだ。
「レカロ。」
「私は生きたよ。」
そう言って、妻は目を閉じた。
手はレカロを離れ、ぽろりとベッドの下へ垂れた。
レカロは言葉が出なかった。
動けなかった。
何も考えられなかった。
レカロは、ぶら下がった妻の手を握り返した。
その手は、もう握り返してはこなかった。
――――――――――
レカロは立ち上がった。
強い勢いで扉を開ける。
レカロは必死であった。
あまりにも強く、自分は生きなければならないという心地であった。
君が転写を受けてくれないのは、それがよく分からないものだからだと思っていた。
一般普及して、それが普通になって。
そうすれば、君は受けてくれるのではないかと、どこかで思っていた。
どこかで。
レカロが三十代半ばの頃。
人格転写制度が完成した、すぐ直後。
妻は大病を患った。
療養も兼ねて、この町の小さな家に移り住んだ。
それからだった。
何度転写を勧めても、彼女は、
「これでいいの。」
「私はこう生きる。」
と、静かで優しい声で言った。
レカロには理解できなかった。
一番大切な人が。
君みたいな、優しくて素敵な人が。
消えてはならない。
だんだん会えなくなった。
物理的に会えなくなったわけではない。
私の心が拒否していた。
きっとまた、制度を拒まれてしまう。
大病が治ったという話は、どこかで聞いた。
ただ、それでも状況は変わらなかった。
すべては終わった。
レカロは急いで馬車を走らせ、制度局のデータセンターへ向かった。
そこにはマザーコンピューターがある。
人々の精神を保存する人格転写制度において、すべての精神記録が一度に保存されている巨大な装置だ。
すべてを終わらせる。
そうしなければ、もう自分が何を守っていたのか分からなくなる。
レカロは急いだ。
ふらつきながら制度局へ入り、一歩、また一歩と奥へ向かって歩いていった。
ロキももういない。
妻ももういない。
私は正しかった。
正しかったはずなのだ。
なぜこうなった。
データセンターの最深部。
石板のように大きな立方体。
それが、色鮮やかに輝いていた。
レカロはそれに触れた。
瞬間。
さまざまな人の記憶が、彼の内側へ流れ込んできた。
レカロ様、ありがとう。
これで生きることができた。
レカロ様。
あなたを信じてよかった。
感謝の言葉は、通り過ぎていくばかりだった。
だが、否定の言葉だけが、一つ一つ彼の耳に残った。
眠れない。
苦しい。
“私は、私として生きたい。”
その声は、妻の声のようでもあり、ある少女の声のようでもあった。
レカロは振り向いた。
そこには、ロキとアンヌが立っていた。
「ロキ……アンヌ……なぜここに。」
アンヌは、ただ一言だけ尋ねた。
「おじさん、大好きな人はいるの?」
レカロは銃を抜いた。
アンヌへ向けて、何発も撃った。
だが、一発も当たらなかった。
「大好きな人はいるの?」
その言葉だけが、頭の中で響き続けていた。
私が。
私が望んだものは――
目の前が暗くなった。
レカロは倒れていた。
そこは、データセンターではなかった。
妻の家だった。
レカロは妻のベッドに手を掛けたまま、倒れていた。
もう一方の手には、買ったばかりの花があった。
綺麗な花だった。
その花だけが、彼の手の中で静かに咲いていた。
――――――――――
エピローグ。
数年後。
レカロなき後、人格転写制度は誰が運用するのか。
そもそも動かすのか。
その議論が国中で起こった。
その中で、ロキが自ら名乗り出た。
指揮を取る、と。
ロキは人格転写制度を、少しずつ国からフェードアウトさせた。
新たな転写は停止。
すでに転写を受けた者たちについては、その精神性の推移と安定性を必ず確保する。
その方針のもと、支援体制が整えられていった。
そうした尽力もあってか、ベルジアとロメルは生きることができた。
第一回民間人格転写実験の研究対象となって以来、複数の人格が混成し、苦しんでいたロメル。
同様でありながら、ロメルよりは少し制御性が高く、彼が危うい時に支え続けてきたベルジア。
二人は、継続的な支援のもとで、精神性の安定を保証された。
そしてまた、アンヌとの温かい家庭の生活が戻ってきたのである。
アンヌはすくすくと育った。
やがて、獣医になるための学校へ進むことにした。
マドリエーヌ・ポン・ポメランネ先生の本を抱えながら、今日も堂々とした背中で学校へ向かうのであった。
ロキは国家元首になった。
それでも彼には、必ず欠かさないことがあった。
それは、
大好きだった人に会い、
決して忘れることなく、
一心を捧げることであった。

【終】
