妖怪
男だけの閉塞した昔の世界には、特有の匂いがあった。
汗と、タバコの煙と、どこか殺伐とした規則や上下関係。
当時、私が身を置いていた警察という組織は、まさにその濃密な男臭さで満ち満ちていた。
そこには「華やかな出会い」などという甘い言葉が介入する隙間は1ミリもなし。
だからこそ、非番の夜になると私たちは「野生の勘」だけを頼りに、「飲み会」という健全な理由をつけて夜の街へと這い出していった。
目的はひとつ。
殺伐とした日常に、一筋の潤いを補給することだった。
その夜も、先輩と後輩を合わせた男5人。足が向かったのは、使い古された座布団と、油の古くなった唐揚げの匂いが漂う大きめの居酒屋だった。
「とりあえず生」で乾杯し、小声で職場の愚痴を言い合いながらも、全員の意識は
居酒屋のからからと開く引き戸
へ集中していた。
誰かが言った。「観察眼は、こういう時にこそ使うもんだ」と。
女性グループが入ってくれば、後輩が察知し、先輩が分析する。
そんな泥船のようなメンバーの中に、後輩のAがいた。
Aは喜怒哀楽が薄く、どこか影の薄い男だった。
彼の口癖は、
「僕、たまに見えるんですよね」
というものだった。
霊感があるのだという。
私は自分の体験もあり、怪奇現象の類を完全に否定はしなかった。
「へえ、お前が言うならそうなんだろ」
と枝豆を噛みながら、適当な相槌を打っていた。
入店から1時間半。
酒と諦めが全員の脳を麻痺させかけた頃、劇的な瞬間が訪れた。
引き戸が開き、20代半ばと思われる5人組の女性が入ってきたのだ。
しかも、あつらえたように私たちの真隣の掘りごたつ席へ通される。
「神は俺たちを見捨てなかった」
テーブルの下で、固い握手が交わされた。
中でも目を引いたのは、グループの中心にいた女性だ。
体に吸い付くような細身のデニムを美しく穿きこなし、弾けるような笑顔で笑う。
彼女が一口ビールを飲むたびに、どんよりとした居酒屋の空気が澄み渡っていくようだった。
満場一致のNo.1
私たちの欲望は沸点に達していた。
「誰が声をかける?」
「店を出るまで待つか?」
結論の出ない会議が続く中、人気No.1だった女子が席を離れた。
そんな時だった。
だだ漏れの欲望を打ち消すような、意見が挙手もなく隣から聞こえてきた。
「僕、妖怪も見えるんですよね」
発言主は、後輩Aだった。
今の議題から外れた意見でもあり、泥酔した先輩も
「おいおい、幽霊の次は妖怪かよ。
ゲゲゲの鬼太郎かお前は」
と笑い飛ばした。
しかし、私はAの「見えるんですよね」と言った言葉に、一瞬席に残された4人の女子が反応したのを見逃さなかった。
Aは少し酔っているのか、淡々と
「見える人には、見えるんです」
と続けた。
タイミングの悪い後輩の戯言、しかし何かに利用できる。
けれど、デニムの彼女は、私の灰色の脳みそが計算を終わらせる前に戻ってきてしまった。
笑顔で、仲間の待つ席へと向かって歩いてくる彼女。
その時、Aが静かに、しかし決定的なトーンで呟いた。
「・・見えますか。あれが、妖怪です」
全員の視線が、一斉に彼女へ注がれる。
そして・・・私たちは見てしまった。
彼女が穿いている、あのかっこいいデニムの腰のあたり。
そこから、幅15センチ、長さ1.5メートルほどの白いものが、ヌルりと垂れ下がっている。
いったんもめん?
だが、それは漫画で見るような真っ白ではなかった。
白い中に茶色のスジの様なものが、数本引かれている。
いったんもめん の「亜種」?
それは彼女が歩く速さに合わせて、ヒラリ、ヒラリと脱力感たっぷりに揺れていた。
そして彼女が「ただいまー」と可愛らしく席につくと、そいつは彼女の真横の畳の上に寄り添った。
「・・・・」
誰も口を開かなかった。
先ほどまでのスケベ心も、甘やかな胸の高鳴りも、すべてが絶対零度まで冷却された。
恐怖ではない。
ただただ、圧倒的な「虚無」が私たちを襲ったのだ。
「……おい、見えてるか?」
「……はい。見えてます。茶色いです」
俺たち全員に見えている。
Aの霊感でも何でもない。
ただそこには圧倒的な現実があった。
「会計、行こうか」
誰かがポツリと言った。
酔いが覚めた私たちは理由のわからない败北感を背中に抱え、逃げるように伝票を持ってレジへと向かった。
後ろを振り返ると、デニムの彼女は相変わらず眩しい笑顔でビールを飲んでいた。
そのすぐ隣で、茶色いそいつは静かに、じっと畳にへばりついていた。
あれは一体何だったのか。
未だにわからない。(分かっているが)
ただ、人生において本当に大切な局面ほど、くだらない妖怪のせいで台無しになることだけは、私はあの夜、深く学んだのだった。
