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先にカップ焼きそばの方を読んでしまった 「風の歌を聴け」(村上春樹著)

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 noteを再開して、約1ヶ月。
 そろそろ小説の感想でも書こうかと思ったが、私は普段あまり小説を読まない。
 本を飛ばして読んでしまうクセがあるので、小説は自分に合わないと思ってしまい、どうしても小説以外の本に手を出してしまうところがあります。


 しかし、たまには気分も変えたい。

   *

 そんな中、ふと手に取ったのがこの本です。


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 結局、小説じゃない本を読み出しましたが、その中に村上春樹の「風の歌を聴け」についての言及がありました。

 そうしたら、次は、村上春樹を読んでみようかな。 


 本の読み方は人それぞれです。
 その本を読む前にその人がどういうことを考えていたのか、どういう予備知識を得ていたのか、大袈裟にいえばどういう人生だったのか、当然ですが、一人として同じということはあり得ません。
 そうであれば、読み始める前までに何を考えていたのかを振り返るのもひとつの本の読み方なのかもしれません

     
     ***



 前回のnoteでは、交流戦を優勝したヤクルトスワローズの髙津監督の本の感想を書いた。


 そういえば、村上春樹氏はヤクルトスワローズファンで、神宮球場の試合中に小説のアイディアが浮かんだみたいな話を、誰かから聞いたことがある。


 「村上春樹」「神宮球場」でググってみる。

 1978年4月1日午後1時半前後に神宮球場で、デイブ・ヒルトンが二塁打を放ったときに、デビュー作「風の歌を聴け」を書こうと思い立ったらしい。

 空から何かが静かに舞い降りてきたらしい。


 「風の歌を聴け」はまだ読んだことがない。

   *    

 村上春樹は、中学3年のときに「海辺のカフカ」を読んだのが、おそらく最初で最後だと思う。


 学校からは本を読みなさいと半ば強制的に読書を推奨された時期である。ただ、子どものときは、本を読むのはあまり好きではなかった。

 まだ、長編小説1冊を通して読んだことがなかった。というより、できなくて途中で挫折していた。

 中3になって、そろそろ長編小説の一冊も読めないなんてまずいなと思い、夏休み前に義務感のような気持ちで書店へ行ったことがあった。
 何か一冊買おう、買わねばと思い文庫本コーナーを数十分ウロウロしていた。

 そこで見かけたのが、新潮文庫の100冊。

 100冊もあるのか、どうせだったら夏休みに全部制覇してやろう。
 100冊という数字に、謎のやる気が湧きはじめ、じゃあ記念すべき1冊目はどうしようかと、またウロウロしはじめた。

 結局、最終的に購入したのが「海辺のカフカ」だった。中3の夏休みはその一冊しか読まなかった。
 

 なぜ、「海辺のカフカ」にしたのか。

 当然中身は知らないので、タイトルと表紙のデザインと裏表紙のあらすじから推測して決めた。
 恋愛物はなんとなく避けたかったのと(回避できていたのか疑問だが)、村上春樹が有名な小説家ということは知っていたので、その本に決めたような気がする。

 村上春樹の小説は、好き嫌いが分かれるというが、どちらかというと、あまり当時の自分には合わなかった。
 というか、実は、「海辺のカフカ」を読んでから、しばらく長編小説自体を読まなくなってしまった(大学受験が終わるまで読んでいないかも)。そういう意味では、全く合っていなかったともいえる。

 内容は正直あまり覚えていないが、性行為とか動物が死ぬ描写とかが結構生々しかった記憶がある。
 大人の書く小説というものはこういうものかと動揺してしまっていたので、いろいろ早すぎたんだと思う。いや、中3だったら早くない気もするが、自分が未熟だったということかもしれない。
 
 友達に「海辺のカフカ」を読んだことを伝えるのもきつくなってしまった。

 読んだ後の気持ちの折り合いのつけ方がよくわからなくなってしまったので、次の本を読む気にもならなくなってしまった。


 ただ、「海辺のカフカ」は最初から最後まで全部読んだ。たぶん最後まで全部読んだ長編小説は初めてだったと思う。最後まで読ませる何かがあったのだろう。

 振り返ってみると、小説への絶妙な苦手意識は、村上春樹のせいだったのかもしれない。
 ある意味「海辺のカフカ」は、自分にとっては、その後の小説へのやや後ろ向きな感情を決定づけてしまった本ともいえる(本が悪いのではなく、一冊目には適切ではなかったのかもしれない)。
 今だったらそんなに動揺しないだろうから、それだけ当時の自分に影響力が大きい小説だったということもできるだろう。


 当時の自分は、本は読むのであればちゃんと読まないといけないという義務感的なものを持ちすぎてしまっていた気がする。
 とくに、小説なんて、最初から最後まで通してストーリーを読まなければ作者に申し訳ないと思ってしまう。

  *


  • 最初から最後まで通して読む必要があると思ってしまった。

  • 中学校の時に「海辺のカフカ」を読んで、動揺が大きかった。

 上記の次第で、自分が小説を読むのが苦手な理由は、おそらくこの二つだと思われる。


 ただ、最近は、本は最初から最後まで読まなくていいと思えるようになった。本noteでも、たびたび取り上げている「読んでいない本について堂々と語る方法」を読んで以来である。

 なにせ、大学教授でも「ハムレット」を読んでいなくていいのである(いや、教授は結局クビになったからダメかもしれない)。


 最初から最後まで読んでいなくてもよい。

 むしろ、読んでいないくらいのほうがいい。


  * 


 さて、「海辺のカフカ」を読んでから、次に、”村上春樹”に接したのはおそらくこの本である。

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 いろいろな文豪の文体でカップ焼きそばのことが書かれている。


 そして、”村上春樹”っぽい文体で、3分間のカップ焼きそばを作る様子を描写したくだりがある。

 「海辺のカフカ」一冊しか読んだことないし、ろくに内容すら覚えていない不届者が読んでも、村上春樹っぽい!ってなるわけなので、ネタ的にとても楽しめる一冊である。

完璧な湯切りは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

神田桂一/菊池良「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら 」(宝島SUGOI文庫)  宝島社. 


 後で気が付くことであるが、本を読むときには、完璧な読み方など存在しないわけである。
 もし、間違っていたとしても、その<共有図書館>は、一つの創造ともいえる。

 最初から最後まで読んでいなくてもよい。

 むしろ、読んでいなくてもいい。

 そして、読む前に何を読んでいてもいいのである。


  *


 村上春樹の本は、「海辺のカフカ」以来、ろくに読んでいなかったが、振り返ると自分にとってある意味かなりの影響力があった(小説から離れていく影響力だったが)。
 でも、なぜか最後まで読むことができた。

 初めて、長編小説を最初から最後まで読めたのは、その文体に引き付けるものがあったからかもしれない。
 だから、文体を模した「カップ焼きそば」が印象的だったのだろう。


 冒頭のとおり、村上春樹は、1978年4月1日の神宮球場で「空から何かが静かに舞い降りて」、小説を書き始めた。ヒルトンのツーベースのあと、小説を書こうと思い立ったとのことである。


 そのデビュー作が「風の歌を聴け」。



 ここまで振り返ってきて、私ははじめて、その後40年以上続く村上春樹の小説家としてのスタート、処女作の最初の書き出し、デビュー作である「風の歌を聴け」の冒頭を読み始めてみた。






「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」

「風の歌を聴け」(村上春樹著) 講談社文庫



 やってしまった。


 もうこの本だけは、最初から最後まで読むしかない。







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