声にならないさけびとなってこみあげるこの気もちは何だろう
先日、詩人の谷川俊太郎さんが亡くなった。
「詩」というものをあまり熱心に読んだことはない。そんな私でも、谷川さんのことは知っている。
「ことば」には、その場の流れを変える力がある。谷川さんの詩を読むと、そんなふうに思わずにはいられない。
みなが一つの方向に漫然と流れているとき、一つの「ことば」が流れを変えることがある。人と人が対立していても、ある「ことば」が、余計な争いを生むことなく、流れを変えることがある。
「ことば」が流れを変える瞬間。
本やnoteなどの文章を読むときには、そんな瞬間が気になっている。
「ことば」には、音がある。
視覚的に文字から受け取れる情報以外に、聴覚的に音声から受け取れる情報がある。
いや、情報というよりは、もっと感覚的な何かなのかもしれない。
たとえば、ある歌の歌詞のように。
*
中学校のときに、クラス対抗の合唱大会があった。
曲は、「春に」。作詞は、谷川俊太郎である。
この時は、ソプラノ・アルト・男声の混成三部合唱だった。優勝したクラスは、市の合唱大会に代表として出場することになっていた。クラス間で対抗意識が芽生え、練習にも熱が入っていた。
そうはいっても、クラス内の生徒たちのあいだには温度差がある。絶対に優勝して代表で出たいという生徒もいれば、そもそも歌なんかダルいという生徒もいる。特に、うちのクラスの男子は、やる気がない生徒が多かった。思春期の男子生徒なんて、そんなもんである。
そういうクラスが練習をすると、先生や女子たちから男子の声が小さいといった注意を受けることになる。「ちょっと、男子真面目にやってよー」
この状況に私は困惑した。
正直、集団の中で歌っている私には、「本当に男子生徒の声が小さいのか」が分からなかったのだ。
隣の〇〇君と反対の△△君はきちんと歌っていて隣からよく声が聞こえる。一方で、距離の離れた女子たちの声は、遠くの声のように感じる。
「男子はすでに真面目にやっているのではないのか?」
そう言ってみたくもなった。
そうはいっても、中に入って歌っている以上、検証の仕様がない。ただでさえ恥ずかしがりの私が、何かを物申すことはできなかった。
ぼくはもどかしい
*
noteなどのSNSで投稿する行為は、自分が書いたものを全世界に閲覧可能にさせる行為である。自分の恥をさらす一面があることは否定できない。
なぜそのようなことをしてしまうのだろう。
承認欲求。
そういってしまえば簡単なのかもしれない。
しかし、実際のところはもう少し複雑なのではないだろうか。
発信して評価されたいという気もちもあれば、そのくせ自分のなかで黙っていたいという気もちもある。
複雑な感情のせめぎあい。
心のダムにせきとめられ
よどみ渦まきせめぎあい
いまあふれようとする
この気もちはなんだろう
*
さきほどの合唱大会。
結果は、7クラス中2位。
最初の壊滅的な状態からすれば健闘したが、代表クラスにはなれなかった。
本番前、思春期の男子たちには葛藤があった。
ちょっと大声で歌ってみたい。そのくせ黙っていたい
一歩を踏み出してみたい。そのくせじっとしていたい
本番前、男子たちは、あらためて「春に」の歌詞を眺めてみる。
なんだこの歌詞は。
そのまんま自分たちじゃないか。谷川俊太郎やべえ。
本番。体育館のステージ。
体育館の端から檀上までが、地平線のかなたへと続いているように感じる。
後ろの男子が緊張しながら、仮設の台に乗るときに、ぎしぎしと軋む音が聞こえる。歌う前の細かい音はあんなに鮮明に覚えているのに、なぜか肝心の歌が始まったあとのあの声は、よく覚えていない。
声にならないさけびとなって
こみあげるこの気もちは何だろう
*
2024年12月1日の関東地方は、とても澄み切った青空だった。
同日、ある方のⅩの投稿でモノカキングダム2024という企画があることを知った。
テーマは、「こえ」。
谷川さんの詩と合唱のことを思い出した。
そのことがきっかけで、ふと調べると、12月に谷川俊太郎さんが最期に翻訳した絵本『クリスマスはいっしょの時間』(スヌーピーえほん)が発売されることを知った。
声にならない何かを感じ、思わずその場で予約した。
目に見えないエネルギーの流れ
正直、シビアな評価にさらされると最初から分かっている企画に文章を投稿するのは、ちょっと怖い。
どんな反応があるのかは投稿してみないとわからない。そもそも、反応があるのかすらもわからない。
……でも、どんな反応があるのか見てみたい。
「ことば」が流れを変える瞬間――
さあ、少しだけ勇気をだして、画面右上の「公開する」ボタンを押してみよう。
あの空のあの青に手をひたすように
声にならないさけびとなって
こみあげるこの気もちは何だろう
(本文1945字)
こちらの企画にエントリーしました!
「春に」所収
