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靴の盗人(短編小説)

あらすじ

大学生の岸(20)は青森の大学に進学して以来、近所にある温泉や銭湯に通う生活を送っていた。ある日、行きつけの銭湯で入浴を終えて外に出ようとすると、見知らぬ男が自分のスニーカーを手にしている所に出くわす。

田村と名乗るその男は、逃げようともせず落ち着いた様子で「靴を新品と交換しようとしていた」と、意外な目的を語り始める。

孤独を抱えた日々の中で始めた奇妙な行動が徐々に明らかになり、困惑しつつも、田村の話に耳を傾けていく。銭湯で靴を盗まれたことから始まった会話が、二人を不思議な方向へ導いていく——。

『入浴から生まれる黄金の身体と心』

行きつけの銭湯「金寿湯」の看板には、店名と共にこの文句が掲げられている。金色で書かれたその文字は、遠くから見てもキラキラと輝いている。

店先に到着し、道路を挟んで向かいにある駐輪スペースに自転車を停めた。風呂道具を入れたナイロン袋を自転車のカゴから取り出し、入口へ向かう。

オレの住んでいるアパートからこの金寿湯までは、自転車で約20分。11月になり、自転車で移動するには少し寒くなってきた。それでも、風呂上がりの火照った身体に冷たい風を感じるのが好きで、雪が降るまでは自転車に乗ることにしていた。大学にも、まだ自転車で通っている。

青森にある国立大学の「北央大学」の文学部に入学して、二年目の秋。縁もゆかりもない北国にあるこの大学を選んだ理由は、直感だった。高校生の頃、進学先が決まらず大学のパンフレットをいくつか眺めていた時に、北央大学のパンフレットが目に留まった。表紙には大学のキャンパス内に雪が積もった写真と、『真っ白なキャンパスは、あなたのもの』という文字。

そのパンフレットから何かを感じてそのまま受験し、無事に合格。青森での大学生活が始まった。千葉の実家にいる両親は「わざわざ青森なんて田舎に行かなくてもいいのに」と心配していたけれど、いざ来てみると住み心地はよい。街には昔ながらの食堂やレトロな喫茶店が並び、飽きることがない。野菜も果物もおいしいし、人混みも少なくて、快適に過ごしている。

もう一つ、この街に住み始めてから気づいた魅力は、温泉や銭湯が多いこと。青森にそんなイメージは無かったけれど、温泉や銭湯に恵まれた土地らしい。自分の家の近所にも、昔ながらの沸かし湯で営業している銭湯や、源泉かけ流しの日帰り温泉が何軒か営業している。

自転車で行ける範囲に五軒ほど温泉や銭湯の行き先があるが、この金寿湯もその内の一つだ。火曜日の講義は午前中しか入っていないので、学食で昼ごはんを食べてから、午後にこの金寿湯に入るのが最近のお決まりになった。

玄関の引き戸を開けて、靴を入れる棚に自分の靴を置く。棚には、先客の二人の靴が置かれていた。平日の昼過ぎなので、まだあまり混んでいない。

「いらっしゃい。400円です」

扉を開けるとすぐ右の番台にいる、金寿湯のおばあちゃんが声をかけてくる。番台に置かれたトレーの上に100円玉を4枚置いて、「こんにちは」と挨拶を返した。

初めて来た時は、番台から脱衣所の様子が丸見えなことに少し緊張して、遠慮がちに服を脱いでいた。けれど、番台に座るおばあちゃんは表情も変えず、ニコニコしてずっとテレビを見ている。今ではオレもすっかり慣れて、入ったらさっさとパンツまで脱げるようになった。

着替えをプラスチックの籠に入れて、100円返却式のロッカーに籠をしまい、鍵を閉める。左手首に鍵を巻いて、タオルと石鹸とシャンプーを手に持ち、浴場の戸を開けた。

浴場に入ると壁の両脇と、真ん中の洗い場にカランが並んでいる。その奥には3つの浴槽があり、中央が一番広いメイン浴槽。向かって右側の一回り小さい浴槽は深い造りになっていて、中腰で入浴できる。その反対側、向かって左側の小さい浴槽は変わり湯。季節に合わせてお湯の種類が変わる。張り紙によると今日は「ラベンダー湯」で、人工的に鮮やかな紫色のお湯から、ほのかにいい香りがしている。

洗い場で身体を洗った後、浴槽へ向かった。中央の浴槽はとにかく熱いので、少し温度が低い変わり湯から入ることにしている。紫色のお湯に身体を沈めると、華やかなラベンダーの香りに全身が包まれた。

しばらく変わり湯に入ってから、メインの浴槽に挑む。何度も来ているが、足をつけた瞬間ビリビリと熱い。それでも、膝から腰、そして胸、肩と少しずつ身体を湯舟に沈めていく。最初は身動きが取れず固まっているが、段々と熱さに身体が馴染んで動けるようになってくる。

しばらくして、ようやく全身の力を抜き、浴槽の縁に身体を預けた。浴場を見渡してみると、オレ以外に入浴客は誰もいない。先客は既に入浴を終えたようで、脱衣所で身体を拭きながら帰り支度をしていた。

その時、浴場の戸が開き、新たに男が入って来た。眼鏡をかけたまま入って来たので、湯気でレンズが曇っている。年齢は60代後半くらいだろうか。男は浴場を軽く見渡し、オレが使っているカランとは逆側の洗い場に腰を落とした。

そのまましばらく湯舟に浸かっていると、やがて身体を洗い終えた男も、眼鏡をかけたままで浴槽に入ってきた。しばらくの間、眼鏡の男と二人で無言のまま湯に浸かる時間が続く。

5分ほどすると眼鏡の男は立ち上がり、洗い場の石鹸などをそそくさとしまって、脱衣場へ戻っていった。入ってから出ていくまで、15分くらいしか経っていない。銭湯に来ると、ささっと短時間で出ていく人をよく見かける。

ちなみにオレは長風呂が好きで、普段からトータル一時間くらいは銭湯に滞在している。友人たちと温泉や銭湯へ行くこともあるけれど、大体友人たちは先に上がっていってしまう。自分のペースで入浴できるので、風呂は一人の方が気楽だ。

そんなことを考えている内に、すっかり身体が温まった。これ以上はのぼせてしまいそうだったので、オレも洗い場の石鹸などを片付けて、浴場から出た。

脱衣所のバスマットの上に立ってタオルで身体を拭いていると、眼鏡の男がちょうど着替えを済ませた所だった。風呂道具の他に、大きめの茶色い紙袋をロッカーから取り出そうとしている。荷物が多いためか少しバタバタしながら、そそくさと脱衣所から出ていった。

オレも自分の服をしまったロッカーを開けようと、左手首のカギを外した。その時、ロッカーの中から携帯電話の着信音がしていることに気づく。鍵を開け、ズボンのポケットにしまったスマホを取り出すと、スマホの画面には『研究室 立花さん』の文字が表示されていた。

電話の相手を見て、これはまずいと焦る。立花さんは、オレが所属する大学の研究室で助手を務める女性だ。長年研究室にいて、色々な事務作業を取りまとめている。「この研究室を無事に卒業したければ、立花さんを怒らせてはいけない」というのが、最初に研究室の先輩から伝えられた教えだった。

その立花さんから、先月の初めにとある封筒を受け取っていた。中身は、3年生になったら始まる調査実習に向けて、現在の意向や興味分野を把握するためのアンケートだ。その締切が今日までだったことを、すっかり忘れていた。

恐らく、これはその締切を知らせるための電話だ。立花さんは締切に厳格なことで知られており、更に電話に出ない学生に対しては、すこぶる機嫌が悪くなる。アンケートを提出しておらず、更に立花さんからの電話に出ないこの状況は、非常にまずい。一刻も早く、電話に出ることが求められている。

その場ですぐに出ようと思ったが、脱衣場のロッカーの上には「携帯・カメラ使用禁止」の張り紙がある。脱衣所にはオレ以外誰もいないとはいえ、張り紙の目の前でこのまま電話に出るのは気が引けた。

オレは大急ぎで服を着替え、外で電話に出ることにした。身体についた水滴もほぼそのままに、服を着て、タオルや風呂道具をナイロン袋にしまう。番台のおばあちゃんにお礼を告げて、早足で脱衣所から出る。

そしてすぐ目の前にある、靴入れの棚を見て——そこで固まる。そこには、先ほどの眼鏡の男が立っていた。

そして男の左手には、オレの靴が握られている。

カーキ色のコンバース。去年から履いているので、靴の下部分、白い所が少し汚れている。汚れ具合、傷の感じを見ても、オレの靴に間違いない。

状況が飲み込めず、しばらくそこで立ち止まって、男をじっと見た。男も、オレに見つかった後は動きを止めて、ただじっとしている。男が手に持ったオレのコンバースも、行き場所に迷っているかのように、空中でじっとしていた。

何か言うべきだと思うけど、その前に頭の中で次々と疑問が浮かんでくる。どうしてオレの靴を持っているんだろう。自分の靴と間違えたんだろうか。それとも、もしかしてオレの靴を盗もうとしていたのか?

色々な疑問が脳裏をよぎっては消えていく。すると、男が観念したように一つため息をつき、こう言った。

「見つかってしまいましたか」

眼鏡の男は焦る様子もなく、続けてオレに向かって話し始めた。

「ご迷惑をおかけして申し訳ない。どうもすみません。この靴は、もちろんお返しいたします」

男は冷静だった。あまりにも淡々としているので、至極まともなことをしているかのように思えてくる。男は続けた。

「このまま、警察に通報して頂いても構いません。ですが、その前に少しだけ、私の話を聞いて頂けないでしょうか」

通報しても構わないということは、やはり盗もうとしていたのか。やはりこの人は靴泥棒なのか。

「すぐそこの公園で、私に少し時間を頂けませんか。すみません」
「ええっと・・・、まあ、はい。分かりました」

まだ状況は理解できなかったけれど、つい答えてしまった。すぐに了承するべきではなかったかもしれない。しかし、男が自分に危害を与えようとしているとはどうも思えなかった。話し方は丁寧だし、乱暴な様子もない。

それに、近くの公園なら開けた場所にあり、道路にも面している。万が一、男が襲ってこようとしても逃げられるし、助けを求めることもできる。

とはいえ、初めて会ったばかりの怪しい男を完全に信用することはできない。男が先に公園に向かって歩き出したのを見て、少し距離を置き、自転車を押しながら後を追った。

3分ほど歩いて、公園に到着する。そこは公園といっても小さな広場で、大きなケヤキの木が何本かある中に、ブランコと、ベンチが2つ並んでいるだけだ。オレと男はそれぞれ、一人ずつベンチに座った。

すぐにまた、男が話し始めた。

「時間を取って頂き、ありがとうございます。私の名前は、田村と申します」
「あ、はい。オレは、岸です」

男が普通の自己紹介のように名乗ったので、つられてオレもつい自分の名前を口にしてしまった。男が続ける。

「岸さん。この度はご迷惑をおかけして、申し訳ない。改めてお詫びを申し上げます。面倒に巻き込んでしまいました。すみません」

田村は両膝の上に手を置き、しっかりと頭を下げて謝罪した。髪の毛が薄くなった頭が、オレの方に向けられる。

「突然の出来事で、驚かせてしまったと思います。申し訳ございません。すみません」
「まあ・・・多少は驚きましたけど。でもまあ、謝罪はもう大丈夫です、分かりました」

田村は「すみません」が口癖のようで、出会ってからの短い間にもう何度もすみませんを連発している。自分よりずっと年齢が上の人から頭を下げられて、段々気まずくなってきた。話を前に進めようと思って、オレから切り出す。

「それより、さっきはオレの靴を持って、何をしていたんですか?ただ間違えたわけではない、ということですよね。どういう状況なのかなと思って」

一番気になっていることを、ずばり聞いてみた。

「はい。私からそれに関して、包み隠さずお話いたします」

田村は膝の上で拳を握りしめながら言った。口調は穏やかだけれど、少し緊張しているように見える。しばらく黙った後、田村は意を決したように話し始めた。

「結論からいうと、岸さんの靴を持ち帰り、代わりに新品の靴を同じ場所に置いていこうとしていました。あなたの靴と、同じ新品の靴を、交換したかったのです」

田村は、はっきりとそう言った。言っている言葉は確かに聞き取れた。しかし、その意味を頭の中で理解しようとしたが、よく分からない。一瞬の間を置いて、オレは思わず「え?」と聞き返した。

「オレの靴を、新品と交換する?」
「そうです。結果的に、岸さんの靴を盗もうとしたということです。何の申し開きも無いです。全面的に罪を認めます。すみません」

田村は潔く罪を認める姿勢を見せているが、オレは全く意味が理解できていなかった。自分の靴を新品と交換して、田村に何の得があるんだろうか。

「ええと、その・・・。それって、どういう目的なんですか?」
「それを説明するには、少々話が長くなります。私の方は全てをお話する覚悟がありますが、時間が多少かかってしまうかもしれません。それでもいいでしょうか」

田村がオレの顔を伺いながら聞いてくる。ここまで来たら、話を聞かずに帰るわけにはいかなかった。もしこの話を断れば、今後もずっと気になってしまう。オレがうなずくと、田村は再び話し始めた。

「それでは恐縮ですが、最初から話をさせて頂きます。まず、私はこの街で生まれ育ちました。大学進学を機に上京して、ずっと東京で暮らしていました。大学卒業後は区役所に就職し、定年までそこで働きました」

最初からって、そこまでさかのぼるのか。ここから、靴を交換する話にどうやって繋がるんだろうと思ったけれど、オレはそのまま黙って聞くことにした。

「私は、結婚することもなくずっと独身で、仕事だけをしてきた人生でした。大した趣味もなく、お金を使うことも特にありません。ただ、人に迷惑だけはかけるな、という親の教えに従って生きてきました。やがて定年退職を迎えて、三年ほど前に地元に戻ってきました。今住んでいるのは実家の一軒家です。両親は亡くなり、私が一人で暮らしています」

田村は途中で詰まることも無く、すらすらと話をしている。田村の声は決して大きいわけではなかったが、聞きやすい話し方だった。田村が続ける。

「私はもう40年以上、地元を離れて生活しておりましたので、戻ってきても知り合いなどいませんでした。地元とはいえ、独りで生活するのは、寂しいものです。そんな中でやることといえば、温泉や銭湯へ行くことくらいでした。とはいえ、私は、そこでも独りです。常連さんや地元の方たちが、おばんです、とか、今日はいつもより遅いな、など声を掛け合っているのを、よく見ていました。その光景が、私をさらに寂しくさせました」

田村は淡々と話し続ける。まるで、いつか誰かに話す時のために準備していたかのような話しぶりだ。感情をこめず、抑揚もない話し方だけれど、不思議と続きが気になる。

「風呂に通う度、私も誰かと挨拶を交わしたり、雑談をしたいな、と思いました。とはいえ、自分から話しかけることもできない性格です。東京にいた時だって、仲の良い友人もおらず、職場の同僚とも、深い関係はありませんでした。せっかく地元に戻ったからには、友人や、知り合いが欲しいと思っていました。でも、どうやって関係を作ればいいか分かりません。私は、このまま誰とも話さず、誰の記憶にも残らずに老いていくのだろうと思うと、悲しくなります」

田村は、ここで一旦話すのを止めた。少しの間、過去に想いを馳せているようだったが、すぐにまた話し始める。

「それでも、他にやることもないし、風呂にだけはよく通っていました。そんなある日、近くの温泉に行くと、玄関に『靴の履き間違いが相次いでいます。ご注意ください』という張り紙があったのです。その温泉ではどうやら、頻繁に靴の履き間違いが起きているようでした。私は、最初は張り紙を見ても、特に何も感じませんでした。しかしその内、他の温泉や銭湯でも、同じような張り紙をよく見かけることに気づきました」

確かに、そのような張り紙にはオレも見覚えがある。オレが行く温泉でも、玄関の靴置き場の見えやすいところに、履き間違い注意の張り紙があった。この辺りの温泉や銭湯では鍵付きの下駄箱やロッカーではなく、玄関の靴置き場にそのまま靴を置く場合が多い。田村は話を続ける。

「そして、私は温泉や銭湯に行くと、靴のことが段々気になるようになりました。風呂に入りながらも、靴に想いを馳せました。靴の履き間違いは、どれくらい起こるのだろう。そもそも、本当に履き間違えているのだろうか?自分が履いてきた靴くらい、すぐに分かるのではないか。もしかして、靴を間違えているんじゃなくて、わざと履いていってる奴もいるのでは?」

田村は時折オレの方を見ながら、真剣に説明している。

「やがて私は、風呂に入っている間はほぼずっと、玄関に並んでいる靴のことを考えるようになりました。湯舟に入っている時も、一緒に入浴しているお客さんの顔を見て、この人はどんな靴を履いてきたんだろう、と考えます。温泉や銭湯に行くときは、不自然にならないくらいの時間を玄関で過ごして、靴置き場に並ぶ靴を観察しました。その内、似ている靴が多いことや、よくある靴の傾向なんかを把握していきました。そんなことを考えている内に、いつしか、思いついてしまったのです。実際に靴を盗んだら、どうなるんだろうか、と」

田村は、恐ろしい計画を思いついてしまったかのような顔をする。その迫力に、オレも思わずたじろいだ。

「最初は、そんなことを考えてはいけないと、必死に頭から振り払おうとしました。しかし、考えないようにすればするほど、実際にやってみたいという気持ちが、どんどん出てきました。家にいるときも、寝る前も、歯を磨いている時も、私は靴を盗む計画を考えるようになりました。そして、ついに・・・」
「・・・実行したんですか」

田村の言葉を引き継ぐように、オレはつい言葉を発していた。気づけばいつの間にか、田村の話に入り込んでいた。田村が後を続ける。

「その通りです。しかし、ただ盗むというわけにはいかない。人に迷惑をかけることは、私の中のポリシーに反するからです。私は、靴の持ち主にできるだけ迷惑をかけない形を取ることに決めました。当然、靴が無くなれば、その人は帰ることができません。そこで、靴を盗んだ際には、必ず同じ靴の新品を、代わりにそこに置いてくることにしました」

田村の言葉には、どんどん熱がこもってきている。靴を盗むことについて語り始めると、身振り手振りも大きく、口調も早くなってきていた。

「私の目的は靴を盗むことだけであって、人に迷惑はかけたくない。できれば気づかれることなく、盗みを実行したいのです。今日も、本当は岸さんがやって来る前に、靴の交換を済ますつもりでした。あなたのいつもの入浴時間を考慮して、まだ余裕があると思っていました」

「えっ・・・じゃあオレのことを、前から調べていたんだ。今日より前にも、この銭湯で一緒になっていたということですか」

「その通りです。靴を盗むときは、私は必ず何度も事前に下調べをします。私が岸さんとこの銭湯で一緒に入浴したのは、今日が4回目です。今日も、岸さんが出て来るまでだいぶ余裕があるだろうと思っていました。いつもだったら浴場から出た後、脱衣所の椅子で15分くらい休憩しているのを確認していましたから」

確かにそうだ。オレは銭湯に入った後は、椅子に座ってしばらく休憩していくのが好きだった。今日は、研究室の立花さんから電話があったので、風呂から上がってすぐ玄関に出ることになった。それで、田村と鉢合わせしてしまったというわけか。

「前にも一緒になっていたなんて、全然気づかなかった・・・」
「そうだと思います。私は毎回、バレないよう細心の注意を払っていますから。この金寿湯で実行しようと決めたのが、三か月ほど前のことです」

田村は、すらすらと答え続ける。これまで実行したことの全てが、しっかりと頭の中に入っているようだった。ここで気になったことを、田村に問いかける。

「ちなみに、今までどれくらいやったんですか」

「はい。今回のこの銭湯で、6軒目になるはずでした。これまでの5軒は全て、近所にある温泉で実行してきました。私のこだわりとして、一度実行したところで繰り返すことはしません。近くに行ける範囲の温泉では全て実行しましたので、今回はここでやることにしたのです」

田村は、真剣な顔で語っている。罪の告白というよりも、自分が取り組んできた仕事について語る男の顔になっている。

「それから私は、普通の客の振りをして入浴に来たり、この周囲を散歩したりして、常連の存在や混みあう時間帯の調査をしていました。一か月くらい様子を見ていた時に、岸さんが毎週火曜日の午後に、金寿湯に来ることが分かりました。他のお客さんも候補に入れながら調査をしていましたが、来る時間がバラバラだったり、年季の入った靴で来る人が多く、新品と交換すると気づかれる懸念がありました。岸さんの履いている靴は入手もしやすく、総合的に判断して金寿湯ではあなたを狙うことにしたのです」

「なるほど・・・」

田村の解説に、つい言葉がこぼれる。オレは恐怖を感じるというよりも、田村の綿密な下調べと実行力に、感心し始めていた。

「今回は失敗に終わりましたが、靴を交換するための下調べを行い、ターゲットを決定し、その行動を追いかけることが、靴を盗むにあたり、一番重要なことです。そして同時に、私は靴を盗むための準備をしている時間に、特別な充実感を覚えるようになりました。ターゲットが銭湯へ入っていくのを見て私も続き、それとなく靴をチェックする。不自然に思われないように浴場に入り、同じ湯舟に浸かる。ターゲットがどれくらい入浴しているのかを確認して、私も浴場を後にする。この時間が私にとって、人との関わりを持てる唯一の時間でした」

オレは、田村がこれまで5軒の温泉でターゲットの行動を追っている様子を思い浮かべた。靴を新品と交換するというミッションのために、全力で仕事に取り組む田村の様子がありありと思い浮かぶ。

「必然的に、私のターゲットは男性になります。入浴時間や滞在時間を正確に把握しようとすると、同じ男風呂に入っている方が、下調べがしやすいからです。もちろん、私がターゲットの方と言葉を交わすことは絶対にありません。気づかれてはいけないのです。私は真剣に観察し、推測し、準備しました。その時、私はターゲットとの絆のようなものを感じていました。風呂で靴を盗むまでの時間が、いつの間にか私の心の支えになっていきました」

田村の顔は、いきいきと輝いている。誰かが傍から見たら、希望にあふれた、夢のある話をしていると思うだろう。まさか、靴を盗むことについて語っているとは思うまい。田村の勢いは止まらない。

ここで、ふと浮かんできた疑問があった。そのまま田村に聞いてみる。

「持っていった古い靴は、どうするんですか?」

「ご質問、ありがとうございます。持っていった古い方の靴ですが、すべて取ってあります。最初は、靴の交換が完了した時点で目的は達成しているので、廃棄しようと思っておりました。しかし万が一、私の実行したことが後から発覚し、さらに持ち主から返してほしいと言われた場合に備えて、保管しておくことが責務だろうと思い直しました。これまで実行した5足は、持ってきたその日の状態のまま、厳重に保管してあります」

田村はここまで話して、一つ深い息をついた。目線を少し遠くにやって、ブランコの方を見ている。

田村の目線の先、ブランコの下のあたりには、一羽のハクセキレイがちょこちょこと早足で駆け回っていた。オレもつられて目線を向けると、ハクセキレイは羽を広げ、パタパタと飛び立っていった。

「私は…いつか、この行為をやめる時が来るだろうと思っていました。何らかの形でこの行為が発覚した際には潔く認めようと、最初から決めていました。もう、二度とすることはありません。もちろん、このまま私を警察に突き出して頂いて構いません。本当に、申し訳ありませんでした」

そう言って、田村は深々と頭を下げる。オレは田村に対してどのような言葉をかけるべきか分からず、ただ田村の薄くなった頭を見つめていた。

それから15分ほど、田村とオレはそのまま公園のベンチに座っていた。田村は、話そうと思っていたことは全てもう話し終えたようだ。すっきりしたような顔つきで、ただ前を見て座っている。

一方オレは、田村にどのような言葉をかけるべきか、迷っていた。田村のしたことは、もちろん悪いことだ。どれほどの罪の重さになるかは分からないが、何らかの犯罪には該当するだろう。

しかし、オレはここまでの話を聞いて、田村の気持ちに少しだけ共感する部分もあった。

入学して最初の頃、オレはしばらく友人が出来なかった。オレが入った大学は地元の青森から進学する学生が多く、入学当時、周りには既に同じ高校出身のグループが出来ていた。オレのように、千葉からこの大学に進んだ奴はほとんどいなかった。

そのため入学して最初の一か月くらいは、一人でいることが多かった。いくつかサークルや部活動の見学に行ったが、何だかどこもしっくり来なくて、いつしか入部のタイミングを失ってしまった。新歓の時期がすっかり落ち着き夏が近づいても、オレは手持ち無沙汰な大学生活を送った。講義が終わった後は、特にやることもない。

そんな時、自転車で街を走ると、温泉や銭湯が街中にあることに気づく。千葉に住んでいた頃、家の近くのスーパー銭湯に行ったことはあったけれど、昔ながらの小さな銭湯や日帰りの温泉浴場は新鮮だった。

オレは、自転車で行ける範囲の温泉や銭湯に通うようになった。空いている時間帯に一人で広い風呂に入れるのが気持ちよくて、講義が早く終わる曜日には、大体自転車に乗って風呂に行くようになった。

田村がこの街に帰ってきても一人で、温泉や銭湯ばかりに行っているという話は、自分と重なるところがあった。温泉で常連同士が話している様子を見て、自分が一人でいることを実感する気持ちも、よく分かる。

オレの場合は、やがて2年生になると研究室に所属して、そこでようやく友達や先輩ができた。車を持っている先輩もいて、今では少し離れた温泉地へドライブに連れて行ってもらったりしている。

しかし、田村はこの街に知り合いもおらず、今から新しい関係性を作るのも難しいのだろう。そんな生活の中で、孤独を感じる気持ちは理解できる。もしかしたら、自分も田村のようになる可能性があったのかもしれない。

しばらくの間、オレと田村は黙って、そのままベンチに座っていた。もう随分長い時間、田村の話を聞いていたようで、気づけば辺りはうっすら暗くなっていた。話を聞き始めた頃には風呂上がりで火照っていた身体も、すっかり冷え切っている。

田村は、もう全てを受け入れるというような雰囲気で、ただ座っている。達成感と寂しさが混ざりあったような、なんともいえない顔をしていた。

その表情を見て、オレは田村に話し始めた。

「あの」

何を話すか、決めているわけでは無かったが、とにかく言葉を出してみる。

「あの・・・。とりあえず、田村さんの話は分かりました。いや、靴を交換する気持ちが完全に分かるわけでは無いけど。でも、とりあえず言っていることは分かりました」

田村は、話し始めたオレの方をじっと見ている。話すべきことを頭の中で考えながら、オレは続けた。

「今回は、オレの靴が狙われたわけですけど。実際には特に被害はなかったんで、オレは別に気にしてません。これまで実行しちゃった分に関しては、罪になるのかもしれないけど。オレからは、その辺を追及するつもりもないです。もしかしたら、靴を盗まれた人たちも気づいてないかもしれないし」

オレは所々つまりながら、話を続ける。

「だから、オレは警察に行くつもりもありません。自分が言うのも変なのかもしれないけど、あまり気にしなくていいんじゃないですかね」

田村は目をつむり、しばらくの間黙っていた。やがてゆっくりと目を開き、話し始める。

「岸さん、ありがとうございます。実は、あなたに見つかったとき、反射的に、すぐさま逃げ出そうとも思いました。それでも、見つかった時には全てを白状する、という私のルールを、守ることにしました。私のくだらなくて長い話を聞いて頂き、感謝を申し上げます。長々と時間を頂戴してしまい、申し訳ありません。この度は、本当にすみませんでした」

田村はそう言ってベンチから立ち上がり、深々と頭を下げた。たっぷり10秒は頭を下げた後、顔を上げる。やるべきことは終わったという感じで、田村は公園の出口へ振り返った。このまま立ち去ろうとしているのだろう。

——その時。オレは反射的に、田村をこのまま行かせてはいけない、と感じた。なぜそう思ったのか自分でも分からないが、ここで田村と別れたら、何かがよくない方向に行くような気がした。

「あの」

少しうわずったような感じになりながら、田村の背中に声をかける。田村が振り返って、オレの方を見る。オレは咄嗟に心の中に浮かんだことを、そのまま口にした。

「あの、よかったらなんですけど。また来週も、金寿湯に一緒に来ませんか」

田村は、驚いたようにこっちを見る。オレは自分でも、なぜこう言ったのか分からなかった。それでも、勢いそのままに話し続けた。

「オレ、火曜の午後は大学の講義が無いので、また今日くらいの時間に、金寿湯に来ます。田村さんもまた来週の火曜日、ここに来てください。それで、一緒に風呂に入りましょう」

田村は、なんともいえない表情でオレを見つめている。完全に予想外の言葉だったようで、リアクションに困っているようだ。困惑したように、田村がオレに問いかける。

「どうして、そんなことを?私にまた会おうとするなんて、おかしいですよ。私のこと、怪しいと思いますよね?」

「まあ、正直怪しいのかもしれないですけど。でも、田村さんの話を聞く限り、危険な人ではないと思います。それに、もう靴を盗むことはしないって言ってるから。この件は、それでいいんじゃないかなと」

田村は、訝しげにオレの顔を見つめている。オレの言葉が、理解できないという感じだ。確かによく考えてみたら、大学生が定年退職した男を銭湯に誘うという構図は、おかしいのかもしれない。もしかしたら、田村から見て今度はオレの方が、怪しい奴に見えているんだろうか。

「とにかく、オレは来週も、いつも通り風呂に入りに来るだけなので。なにも特別なことは無いです。もしその気になったら、またここで会いましょう。それではまた!」

何も言わないままの田村にそう言い放って、オレはベンチから立ち上がった。何だか自分の方が変なことを言っているようで気恥ずかしくなったので、田村を置いて先に自分が立ち去ることにする。

道路に出て、自転車に乗る前に振り返ると、田村はまたベンチに座っていた。薄暗くなった公園の中で表情までは分からなかったけれど、じっと地面のあたりを見つめているようだった。

次の日。

オレは朝一番で研究室に行った途端、助手の立花さんに捕まり、そのまま長時間に渡る説教を喰らった。内容は、もちろんアンケートの締切を過ぎたこと、昨日の電話に出なかったこと、そしてその後に折り返しの電話もかけなかったことについて、厳しく追及されてしまった。

昨日、公園で田村から話を聞いている内に、立花さんのことはすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。その後、家に帰ってからも田村との出来事のことを考えて、気づけばそのまま眠りに落ちていた。

今朝、研究室に入って立花さんの顔を見た瞬間に全ての記憶が蘇ってきたが、もう手遅れだ。研究室のお茶飲み場で、立花さんにたっぷり絞られた。その場で立花さんに監視されながらアンケートを書き上げ、何度も謝罪して、ようやく許してもらった。

その後、午後から倫理学の講義を受ける。最初はノートを取りながら真面目に聞いていたが、講義が進むにつれて、次第にまた田村のことを考えた。

来週の火曜日、田村は金寿湯に来るだろうか。昨日の田村のリアクションからは、感情が読み取れなかった。あの場で咄嗟に出てきた突拍子もない提案だったけれど、不思議と後悔はしていなかった。

昨日の出来事を研究室の友達に話してみようかとも思ったが、絶対に怪しいと思われるだろうし、もう田村には会うなと言われそうなので、やめておいた。もしオレが逆の立場で、友人から「銭湯で靴を盗む男と会って話を聞いてきた。来週また会おうと思ってる」と相談を受けたらすごく怪しいし、絶対に引き止めると思う。

結局その週は大学に通いながらも、講義の合間にぼんやりと、田村のことを思い返す日々が続いた。田村に想いを馳せながら、日々はあっという間に過ぎていく。

——そして、田村と会った日から一週間後。約束の火曜日がやって来た。

オレはいつもの様に午後の講義が終わった後、自転車で金寿湯へ向かった。

中に入って、靴入れの棚を見る。今は誰も入っていないらしく、靴は一つも並んでいなかった。田村はまだ来ていないらしい。

番台のおばあちゃんに100円玉を4枚渡し、いつも通りさっさと服を脱いで浴場に入る。身体を洗ってから変わり湯で身体を慣らし、その後に中央の広い浴槽に身体を沈める。お湯はいつも通り熱い。

田村は今日、来るだろうか。一人きりの浴場で考える。

冷静になると、来る可能性の方が低いのかもしれない。田村とは、一週間前に会ったばかり。何より、靴を盗もうとした犯人と、狙われたターゲットという関係性だ。田村にとっては、またここに現れる意味が無い。

でもオレは何となく、田村は来ると思っていた。

一週間前、公園のベンチに座って語り合った時。オレは、田村との間に不思議なシンパシーを感じた。一人になるのが寂しくて、温泉や銭湯に通う田村。年齢はかなり離れているけど、何となくオレは田村に共通するものを感じていた。

なぜ、田村にまた会おうという提案をしたのか。この一週間、ずっと考えていた。

これから、靴を盗むという任務を失った田村は、どうなるのか。もしかしたら、ようやく見つけた人との繋がりを失って、人生の意味を見失ってしまうかもしれない。そのまま部屋から出ることもなくなって、一人でただ老いぼれていくのかも。田村が立ち去ろうとしたあの時、不意にそんな考えが脳裏をよぎった。

だから、銭湯で会う約束をして、田村が外の世界に出る理由を作りたかったんだと思う。公園で田村に提案した時はそこまで深く考えていたわけではなかったけれど、恐らくそんな気持ちから出た言葉だったんだろうと、今は自分で納得している。

そんなことを考えながら湯に浸かり、10分ほど経った。身体も温まってきたので、洗い場の椅子に移動して、一度身体を休める。桶に冷たい水を溜めて、少しクールダウンしようと思った、その時。

浴場の戸がガラッと開いた。

入口に目を向ける。しかし入って来たのは田村ではなく、金寿湯にいつも来ている常連のおじいさんだった。これくらいの時間帯に、よく一緒になる。オレは気を取り直して、また浴槽に入ったり、洗い場で身体を休めたりして過ごした。

そして、入浴してからおよそ30分が経とうとしていた。

その頃になると、オレはもう、田村は来ないことを察していた。

あれだけ、念入りにターゲットの行動や滞在時間を観測していた田村だ。オレがここに来る時間も、どれくらい入浴するのかも、正確に把握していた。普段であれば、オレはとっくに金寿湯から出ている時間だ。いつもより長く入っていても姿を現さないということは、もう田村は来ないということだろう。

オレは最後にもう一度湯舟に浸かり、そして浴場を出た。脱衣所で着替えながら椅子に座り、ぼんやりとテレビを眺める。

田村が来ないと分かって、心の中で「まあ、そりゃそうだよな」と自分に言い聞かせる。平静を装っていたが、本心では、自分でも驚くほどに気持ちが落ち込んでいた。ショックだった。

田村のためを思って、金寿湯でまた会うことを提案したつもりだったけど、もしかしたら自分の方が、田村に会うことを楽しみに思っていたのかもしれない。なぜだか分からないけれど、またここで田村と風呂に入れると思っていた。それが叶わないと分かると、想像以上にオレの気持ちは沈んだ。

すぐに立ち上がる気になれずにしばらく椅子に座っていたが、いつまでも脱衣所にいるわけにもいかないので、気を取り直して立ち上がる。番台のおばあちゃんにお礼を言って、脱衣所を出た。

靴入れの前に立って、自分の靴の前に立つ。下の段には、さっき入ってきた常連のおじいさんのものと思われる、サンダルが置かれていた。

そして自分の靴を取り出そうとした、その時――。

違和感があった。

この靴は、確かにオレの靴だ。カーキのコンバース。今日は入る時、確かにこの位置に置いた。左の棚の、一番上の段。間違いない。

しかし、靴を手に取ろうとした時、何かが違う気がした。何が変わった?数秒、その場でフリーズして、そして気づいた。

靴が、新しくなっている。

オレの履いていた靴はもう一年以上履いていて、白い部分が土で汚れているはずだ。それに、よくかかとをつぶして履いているので、その跡がしわになっているはずだ。しかし、目の前にあるこの靴には、しわも汚れもない。どう見ても新品だ。

何が起こったのか理解できずに立ち尽くしていると、靴の下に何かが挟まっているのに気づいた。取り出すと、それは白無地で縦長の封筒だった。

封筒を開けると、A4のコピー用紙に、横書きで文字だけが印刷された手紙が入っていた。その場ですぐに読み始める。

拝啓

本日は、せっかく誘って頂いたのにも関わらず、ご一緒できなくて申し訳ございませんでした。

まずは何よりも先にお伝えしたいことがあります。あなたのご提案は、私にとって大変嬉しいものでした。あなたのような青年が、どうして私のような老いぼれを誘ってくれるのか、分かりません。しかし、私のことを気にかけて、風呂に誘ってくれたあなたの気持ちは本当に嬉しかったです。この街に帰ってきて、私は初めて人と約束をしました。

実は、先週あなたの提案を聞いてからしばらくの間は、私はあなたに会いにここに来ようと思っていました。私はワクワクして、早く約束の日が来てほしいと思っていました。

しかしその時、ふと考えたのです。私は、このまま何も無かったかのように、あなたの前に現れていいのか、と。

あなたは気にしないと言ってくれましたが、私があなたの靴を盗もうとしたことは事実です。これまでに5回、実際に靴を盗んだことも事実です。

この事実を無かったことにして、あなたと一緒に風呂に入る資格が、私にあるでしょうか。私は、正々堂々と、あなたと一緒に風呂に行けるようになりたいと思いました。

そして、私自身のために、自分のやってしまったことを償うことを、決意しました。

これから私は、靴を盗んでしまった5軒の温泉に行って事情を説明し、盗んでしまった靴を返却に行ってきます。怪訝な顔をされるでしょうし、怪しい奴だと思われることは間違いありませんが、それでも必ずやり遂げる所存です。

それが終わったら、警察に自首します。私のしてしまったことに対して、どんな判断がなされるのか分かりませんが、全てを包み隠さず、ありのままに話してきます。

そして、私のしたことに対しての償いが全て終わった後、改めてこの銭湯に来たいと思います。私はスッキリとした気持ちで、火曜日のこの時間に、またこの銭湯に入りに来ます。

とはいえ、もちろんこれは私の勝手な所信表明です。私が次にいつ、この銭湯に来られるかは、私にも分かりません。忙しく貴重な日々を送っている、あなたの生活を縛るようなことはしたくありません。どうか、私のことは気にしないで、充実した大学生活を送ってください。

それでは、くれぐれもお元気でお過ごしください。

敬具

オレは、一気にA4用紙一枚分の手紙を読み終えた。これで終わりかと思いきや、その下にもう一枚、紙が重なっている。

オレは、二枚目の用紙を読み始めた。そこには一枚目よりも短い文章で、これだけ書かれていた。

<追伸>
あなたの靴を、預かっていきます。そして、新品の靴を代わりに置いていきます。どうかお許しください。
いつかまた一緒に風呂に入れることを、楽しみにしております。

田村からの追伸を読んで、オレは思わず噴き出した。

田村は最後に、オレの靴を盗んでいったんだ。それは田村にとって覚悟の表明であり、そしてまた戻ってくることの宣言でもあった。どんな言葉よりも、田村の意志の強さが、靴を盗んだことから感じ取ることができた。

オレはその場で、田村からの手紙を何度も読み返した。

田村が再びこの銭湯に現れるのがいつになるかは、分からない。でも、いつか必ず田村はやって来ると思った。決めたことは、必ずやり通すはずだ。

オレの靴を持っていったことが、何よりもその決意を物語っている。靴を新品と交換していったことが、約束のしるしだ。いつか必ず、田村はオレの靴を返すために、この銭湯に来るだろう。オレはなぜだか、心からそう確信していた。

田村が置いていった靴を棚から取り出し、玄関に置いて履いてみる。新品なので少し固くて足が入りづらいけれど、サイズもぴったりだ。

田村がいつ来てもいいように、これからも火曜日の午後は、金寿湯に通うことが決まった。三年生になったら時間割が変わるけど、この時間には講義を入れないように、うまく調整しないといけない。全く面倒くさいことになったと思いながらも、自然と笑顔になってしまう。

そんなことを考えながら外に出て、自転車のカゴにナイロン袋を置く。ピカピカになったコンバースでペダルをこぎ出して、オレは家路についた。

(終わり)


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鎌田よしふみ|青森の温泉ソムリエ♨ サポートは温泉ソムリエとしての活動費に使わせていただきます!応援の気持ちをいただけたらとても嬉しいです。