作家・エウリピデス茨棘とは誰なのか?【作家素描】
エウリピデス・茨棘(いばら・きず、1897-1985)は、大正末期の日本に生まれた、ギリシャ人と日本人(茨城県出身)のハーフとして知られる特異な文化人である。
彼の生涯は、異文化の融合と独自の創造性に満ち、ギリシャ悲劇の伝統を日本的な文脈で再解釈し、後半生では北関東の土着文化を掘り起こすことに情熱を注いだ。
以下に、その生涯を時系列で概観する。
幼少期と出自(1897-1910s)
エウリピデス・茨棘は、1897年(大正末期の直前、明治30年)に、茨城県の小さな農村で生まれた。
父はギリシャから渡来した考古学者で、古代ギリシャの遺跡調査のために日本を訪れていたが、現地の女性(茨城の農家出身)と恋に落ち、結婚した。
名前の「エウリピデス」は、父の故国で有名な悲劇詩人Euripidesにちなみ、「茨棘」は母の故郷・茨城の「茨」を取り入れ、棘(きず)の字を加えて生まれた傷跡や鋭さを象徴する珍妙な響きを与えられた。
このハーフとしての出自は、彼の生涯を通じてアイデンティティの葛藤を生み、後の創作の源泉となった。
幼少期は、茨城の田舎で過ごし、父からギリシャ神話や悲劇を学び、母からは日本の民話や農村文化を吸収した。
父の影響で早くからギリシャ語を習得し、10代前半には地元の祭りで即興の詩を披露するようになる。
しかし、異国的な容姿と名前ゆえに村人から「棘のような異端者」と揶揄され、孤立感を味わった。
この経験が、彼の演劇観の基盤——「人間の苦痛と再生のドラマ」を形成した。
若き日の演劇活動と創作の始まり(1920s-1940s)
大正末期から昭和初期にかけて、東京に移住した茨棘は、ギリシャ悲劇の研究に没頭した。1925年頃、独自の演劇論「棘の悲劇論」を発表。
これは、Euripidesの心理描写を基に、日本的な「無常観」を取り入れ、観客の内面的な「棘」を刺激する演劇を提唱したものだ。
彼はこれを基に、戯曲『茨のメデイア』(1928年)を執筆。ギリシャ神話のメデイアを、茨城の農村女性に置き換え、異文化の衝突を描いたこの作品は、当時の文壇で物議を醸した。
1930年代に入ると、オペラ創作に着手。
代表作『棘のオルフェウス』(1935年)は、ギリシャ神話のオルフェウスをモチーフに、日本民謡の旋律を融合させた実験的なオペラで、東京の小劇場で上演された。
戦時中は創作を控えめにし、疎開先の茨城で地元の民俗を研究。
戦後の1940年代後半、復興期の文化運動に参加し、ギリシャ悲劇の翻訳や講演で知られるようになった。
彼の演劇観は「悲劇は棘のように心を刺し、癒しの道を示す」とまとめられ、多くの若手芸術家に影響を与えた。
後半生の文化財発掘と創作の深化(1950s-1985)
1950年代以降、茨棘は故郷・北関東(主に茨城、栃木、群馬)に戻り、民族文化財の発掘に生涯を捧げた。
ギリシャ考古学の知識を活かし、古墳や民具の調査を独自に行い、『北関東の埋もれた棘たち』(1962年)を出版。
これは、古代の土器や祭祀遺物を「文化の棘」として論じ、日本とギリシャの共通点を指摘した画期的な著作だ。
彼は発掘現場で自ら土を掘り、発見した文物を基に新たな創作を展開。
例えば、発掘した古い面から着想を得た戯曲『土のエレクトラ』(1970年)は、ギリシャ悲劇Electraを日本農村の復讐劇に翻案した。
後半生は、文化人として多忙を極めた。
オペラ『茨棘のプロメテウス』(1975年)では、プロメテウスの神話を北関東の火祭りと融合させ、独自の音楽劇を完成。
1980年代に入っても、講演や執筆を続け、茨城県の文化振興に貢献した。
晩年は「発掘は創作の棘を研ぐ」と語り、死の直前まで新作の構想をノートに記していた。
死と遺産
1985年、88歳で茨城の自宅にて没。
死因は老衰だが、最期までペンを離さなかったという。
彼の生涯は、異文化の「棘」として生まれた苦痛を、芸術と発掘の力で昇華させたものだった。今日、彼の作品はギリシャ悲劇の日本版として再評価され、北関東の博物館には彼の発掘品が展示されている。
珍名「茨棘」は、今も文化史の奇譚として語り継がれている。
