「――だよ」 #せりふ三題噺
エミはぼんやりと藤棚を見ていた。
家の近所の公園に、ちょっと大きな藤棚がある。エミは藤棚なんかに興味はなかったが、なぜか今、その藤棚の前で足を止めている。本人にその気はなくとも、彼女の心が勝手に「落ち着ける場所」を求めていたのだろう。ちょうど、藤棚の下のベンチがあいている。
エミは歩いていって、そのベンチに腰掛けた。頭上の藤棚が大きな天井になる。荘厳な美しさ。一瞬、この世ではないような気持ちになる。
隣に誰かが座っているのに気づいて、エミは驚いた。座ったときにはたしかにこのベンチには自分一人だったはずなのに、すぐ隣に人がいる。
相当ぼんやりと自分はこの藤の天井に見惚れていたのだろうか。それとも、ざわざわした気持ちに気を取られていたのだろうか。それにしても距離が近い。
「誰……?」
エミは声に出さず、しかしその疑問いっぱいの目で彼女を見た。四十代くらいのその人は、不思議なことに、ずっと昔からエミが知っている人のような気がした。でも、いくら考えても初めて見る顔だった。その顔はエミに微笑みかけている。
「日差しが強いから」
その人はそういって、バッグから日焼け止めの小さなボトルを取り出した。
「塗ってあげるから、目を閉じていて」
いわれるままに、エミは目を閉じた。その人の柔らかな指先がエミの頬に触れる。かすかにお香の香りがする。このときエミは、どこかで自分とその人が繋がっているような感覚をおぼえた。自分と同じ匂いの、遠い祖先に会っているような。
「はい、もういいわよ」
エミは目を開けた。さっきの微笑みがまだそこにあった。一呼吸おいて、その人はいった。
「どうしたの。ナナコちゃんと何かあったの?」
そう聞かれて、エミはハッとした。
午前中、近くに住んでいるいとこが久しぶりに遊びに来た。エミとナナコは同い年で、幼い頃はいつも一緒に遊んでいた。何でも一緒にやり、何でも真似し真似され、それをお互いの喜びとしていた。
しかし、成長すれば、お互いの相容れない部分を発見してしまうことだってある。まだ十五歳のエミは自分の気持ちをどう処理していいのかわからずに、ナナコと同じ場から逃げるように家の外に出たのだった。
その後、とりあえず一人になろうという本能に導かれて、ここへ来た。
「話してごらんなさいな。きっと落ち着くわよ」
エミはポツポツと言葉を口にした。
「ナナコが久しぶりに遊びに来ていて」
「でもなんか前と違ってて」
「らしくないっていったら、エミも変わったよねっていわれて」
「私は変わってないのにって、すごく嫌な気持ちになって……」
言葉が詰まった。
その人は、優しく背中をなでてくれた。その、背中を移動する手の感触が、エミの目から涙を押し出す手助けをしたらしい。エミ自身も自覚していなかった大きな動揺と喪失感が涙になって、ぼろぼろとこぼれ落ちた。
そのとき、公園の前の通りからサンダルの音がした。ナナコのサンダルだった。ナナコがきょろきょろとあたりを探しながら歩いている。たぶん、エミを探しているのだろう。一瞬、ナナコがこちらを見た。目が会ったようにエミは思ったが、そうではなかったらしい。ナナコはあちこちに目をやりながら、そのまま通りを歩いていってしまった。
エミは自分からナナコに声をかけようとはしなかった。もう少し、一人でいたかったから。
エミは、またぽつりぽつりと、しかし今度はどうでもいい話をした。なぜって、涙を止めるために決まっている。その人はそんなエミの気持ちを受け止めるように、穏やかな笑顔で話に付き合ってくれた。
しばらくたって気持ちも落ち着いてきた頃、その人はいった。
「もう、お帰りになったほうがいいかも。おなかも空いているでしょう」
エミはそこで初めて、空腹に気づいた。家を出てきたのはお昼前だった。
「また心がざわざわしたら、このボトルを持ってここへいらっしゃい」
その人はエミの手に、さっきの日焼け止めのボトルを持たせてくれた。
「でも、自分で塗ってはだめ。私が塗ってあげますから」
エミがボトルを振ってみると、中身はわずかに残っている程度だった。その人は、最後にこういった。
「私に会ったことは誰にもいわないで。ここだけの話だよ」
――だよ。
あれ、この人、本当にこの人? この人なら、ここだけの話よ、とかいうよね? 明らかに今までの口調とは違う。隠れていた別の何かが一瞬出てきたような、変な感じがする。ほんのわずかなざわつきが走る。
そのとき急に、エミは気温の高さに気づいた。暑い。顔から汗が流れて、日焼け止めが汗と一緒に服に落ちてしまう。エミはハンカチを取り出して顔を拭った。
そのわずかの間に、空気が変わった。見ると、隣に誰もいない。……あれ? 一瞬前にはここにいたよね? 人が動いた気配はなかったし、あたりを見ても、どこにも彼女は見当たらない。お香の香りも残っていない。
すると急に、エミの耳に、周囲の音が流れ込んできた。今の今まで、女性の声と、サンダルの音しか聞こえていなかったらしいことに、エミは気づいた。今までのことは、幻か、白昼夢か何かだったのだろうか?
しかしエミの手には、日焼け止めのボトルがあった。振ると、シャカシャカとわずかに残っている液体の音がする。これ、本当にただの日焼け止めなのかな。
遠くから、ナナコのサンダルの音が聞こえてくる。
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