四次元靴下 #せりふ三題噺
「この世で一番デカい観覧車に乗りたくない?」
そう聞かれたように思ったが、おかしなことに誰もいない。
でも私は返事をした。
「私、高いところ苦手だから乗らない」
誰もいないから返事ではなく独り言というべきかもしれない。
……万が一にもまかり間違ってそんなものに乗せられることがあっては非常に困るのだ。だって、もしゴンドラがちょうどてっぺんに来たときに、観覧車が故障して止まってしまったらどうする? この高さで宙吊りになるんだぞ。
落ちるかもしれない。
落ちるかもしれない。
高いところが怖いという恐怖の正体はずばり「落ちて死ぬ恐怖」に他ならないと思う。高いところでは身体が勝手にぞわぞわするし、
「ヒーー……」
と勝手に声が出てしまう。
もし何日も閉じ込められたとしたら、空腹で死ぬ前に恐怖で死ぬに違いない。今バッグにはさっき買ったマシュマロが入っているけど、そんなもので空腹は満たされない。むしろやわやわとしたマシュマロを口に入れて噛むときには、こらえていた恐怖をその「噛み」で崩してしまうような感覚に襲われて涙が出てしまうに違いない。その一秒後には鼻の奥がほどけて鼻水が流れ出すに違いない。
きっとトイレも我慢しきれない。我慢することで恐怖を誤魔化すという転嫁もありえるが、いつまでももつわけがない。恐怖で死んだのにトイレを我慢して死んだと思われるかもしれないが、トイレを我慢したくらいで死ぬわけがない。絶対に、死ぬ前に漏れるに決まってる。漏れたらもう我慢しなくてすむ。そして、恐怖が襲ってくる。
待て。
何をもやもやと想像して勝手に怖くなっているんだ私は。こんなだから、周りの人たちからヘンなヤツ扱いされるのだ。
「あれ?亀?」
同僚が私に声をかけた。私は亀とは呼ばれていないが、彼女ははっきり私にそういって声をかけたのだ。
「亀って何?」
私が聞き返すと、彼女は私の靴下を指さした。
「靴下から亀が出てきてるよ」
「うわ、いけない」
私は亀を引っ張り出した。私が家で飼っているゾウガメのウガちゃんが、四次元靴下に紛れ込んでいたらしい。
「四次元靴下はくのやめたほうがよくない?」
「でもこれ可愛いから、つい」
「四次元に足突っ込んでて平気でいられるなんて信じられない。その靴下に吸い込まれてどっか行っちゃうかもしれないじゃん」
私はぎくりとした。
「たとえば観覧車とかさ、あんたの苦手な」
背中がぞわぞわして思わず、
「ヒーー!」
と声が出た。
「そういえば、さっきまた一人でフツーの声で長い独り言いってたけど、今度はどうしたの?」
「あ、ああ、あのね」
私はさっきのようにもやもやと想像を始めると、それを声に出してしまうらしい。ヘンなヤツ扱いされるのは、変なことを考えているからではなく、たんに長い独り言のせいなのだ。
「急に誰かに声をかけられた気がして。『この世で一番デカい観覧車に乗りたくない?』って」
「ふーん。それってもしかして、靴下から聞こえたんじゃない?」
私は反射的に靴下を脱いだ。たしかに、四次元だから、亀が紛れ込むくらいだから、誰か人がいてもおかしくない。その人に足を掴まれて引きずり込まれて観覧車に押し込まれて、ゴンドラがてっぺんに行ったところで電源を切られて放置されてもおかしくない。そしたら私は、マシュマロとトイレを我慢しながら落ちて死ぬかもしれない恐怖とともに孤独な時間を過ごさねばならない。そしてその誰かが「このへんにしといてやるかぁ」とか言って再び観覧車の電源を入れて動かしてくれるまでの間に私はきっと……
「待て待て、妄想がひどすぎる。ストップ!」
同僚が私の妄想を止めた。またもボロボロと心の声が口からもれていたようだ。
「とにかくもうその独り言やめなよ。靴下は捨てちゃって、もう二度とはかないこと」
私はさっきあわてて脱ぎ捨てた可愛いネコ柄の靴下をビニール袋に入れて、口を結わえてとじた。
「捨てなよ」
「う、うん。でもこれお気に入りで……」
「だってもう怖くてはけないでしょ」
「はけない……」
「ほら、デスクの下のゴミ箱に、ポイって」
「も、持って帰って家で捨てる。いや、もうはかないから、捨てるのは……」
同僚は呆れた顔でちょっとしたため息をついた。
「わかったから、もう二度とはいちゃだめだよ。中を覗くのもだめだし、洗濯機に入れるのもやめときなよ」
「え、洗濯機も?」
「そうだよ。洗濯物が吸い込まれちゃったらどうするの」
「あ、そうだね……」
私は冷めたお茶をひとくち飲んだ。とっくに昼休みは終わりかけていた。
帰りに私はゾウガメのウガちゃんを靴下に戻そうとして同僚に止められた。
「だってウガちゃんデカいから……」
「デカくても! 今日は連れて帰りなさい!」
「わ、わかったよ」
私はウガちゃんの身体にぐるっと紐を結わえ付けた。だけどちょっと待てよ。犬なら自分の歩く速度に合わせてくれるけど、ゾウガメのウガちゃんはそうはいかない。亀は歩みがのろいのだ。たとえば、電車のドアが開いている間に乗り込めるとはとても思えない。歩かせて帰るのは無理だ。しかし、まだ生まれて数年の若いゾウガメだから、リュックに突っ込んで背負って帰るか、買い物袋に入れて持って帰るのは可能な重さだ。でもなぁ。電車で二十分、さらに駅から十分歩かないと家に着かないんだよなー。
疲れるなぁ。はぁ。ちょっと困ってウガちゃんを見ると、ウガちゃんは若いのに老人みたいな目で私を見ている。うーん。しかたない、背負って帰ろう。
私はリュックの中身をあけてウガちゃんを収納し、出した中身を買い物用の手提げ袋に入れて、職場を後にした。ウガちゃんの収まったリュックは、十キロの米袋を背負っているような重さだった。でも私は頑張った。背中にいるのはウガちゃんだ。ちゃんと連れて帰ってあげなければ。ウガちゃんはリュックの中で手足を甲羅に引っ込めてじっとしていてくれる。おかげで、誰も私のリュックの中にゾウガメが入っているなどとは気づかないだろう。電車の中で、背中にゾウガメを背負っている私。至近距離にまさかゾウガメがいるとは思わないだろう近くの人たち。なんか不思議な世界かもしれない。
やがて最寄り駅に到着し、駅の階段をのぼって地上に出るのだが、自分の体重が十キロ重いだけで、階段一段をあがるのに必要な力がずいぶん違う。いつもの調子で一段のぼろうとしたら身体が持ち上がらない。
「ふんっ」
と力を使わないと階段をのぼれない。これは、もし私が十キロ太ってしまったら、このくらいの力が必要になるということだ。なるほど、太ると膝へのダメージが増えるわけだ。そんなことを思いながら地上に出たときには、私はぐったりと疲れていた。背中でウガちゃんが少し動く。
「ウガちゃん、もうすぐ家だよー」
私は背中のウガちゃんに話しかけながら、家への十分間を頑張って歩いた。
家についた私は玄関ドアを開け、その場に座り込んでリュックを下ろし、中からウガちゃんを出した。
「あら、おかえり。なんでウガちゃん連れてったの?」
「連れて行かないよ、四次元靴下から出てきちゃったの」
「あ、そうなの。大変だったわね」
ウガちゃんはのんびりと居間に向かって歩く。部屋の隅の自分の持ち場でまったりしたいらしい。私は手提げからカラのお弁当箱と、ビニールに入った四次元靴下を出した。
「靴下、洗わないでしまうわけにいかないよね……」
疲れ切っているのだが、私は靴下を持って洗面所に行った。洗面器にぬるま湯と洗剤を入れて、四次元靴下を手洗いする。口が開かないよう気をつけながら、ぎゅ、ぎゅ、ともみ洗いをして、数回すすぎ、ぎゅっと絞って、自分の部屋の小さなピンチハンガーに干した。もちろん、口を洗濯バサミで挟んで。つま先をつまんで干したりしたら、下向きの口がうっかり何を吸い込むかわからない。
こう考えてみると、四次元靴下などというものがなぜこの世に商品化されているのかがまったくわからない。謎すぎる。四次元でなければ、ただの可愛い靴下なのに。それを平気ではいていた自分も謎だ。
さらに言えば、自分の部屋にピンチハンガーを置いてるのは、時々私の洗濯物が……つまりこの靴下が家族の誰かのところにまぎれてしまうのが嫌だからだ。この靴下は私のお気に入りなのであるから。四次元靴下を何の不安もなくお気に入りにするなんて、どうかしてる。
その日はすっかり疲れていて、夕飯を食べて風呂にチャポンと浸かったらもう眠くてたまらなくなり、早々に布団にもぐりこんで眠ってしまった。
翌朝、目覚ましより早く目覚めたと思ったら目覚ましをかけ忘れていたという大失態に慌てふためき、とりあえずパジャマを脱いで服に着替え、吊るしてあった靴下をはいた。
しまった。
いまいち乾ききっていない。
……いやいや、そうじゃない。私は自分の部屋に吊るした四次元靴下をはいた瞬間に、『この世で一番デカい観覧車』のゴンドラに乗り込んでいたのだ。背後でガチャンと扉が閉められる音がする。
「どうして? 今まで何度も四次元靴下はいたけど何ともなかったじゃない!」
そう叫ぶ私の声は外の係員には聞こえない。ゴンドラはわずかな揺れとかすかなきしみ音をともないながら、ゆっくりと上昇していく。
「昨日あんな想像をしたから、それが現実になったの?」
誰に聞くでもなく私は言葉を口にした。でも誰も答えてくれない。
確かに、私は今までにいろんな想像を、いや、妄想をしたけれども、それが現実になることなんて稀だった。それがなぜ今回だけ? 今までの妄想と違うことといえば、それを四次元靴下と結びつけたことだけだ。四次元靴下と私の妄想が結びついた時に、それが現実として発動するということなのか? そんなこと取説に書いてあったか? いや、私は取説なんか読んでない。そもそも靴下に取説なんて付いてない。
あっという間にゴンドラは町を見下ろす高さになっている。家々の屋根、ビルの屋上、遠くの山の影。私は思わず
「ヒーー」
と声を漏らす。背中が勝手にぞわぞわする。マシュマロを食べてもいないのに涙が出てくる。落ちたらどうする。落ちたらどうする。
その時、あの声が聞こえた。
「この世で一番デカい観覧車、やっぱりすごいね!」
ゴンドラには私一人だ。誰? 誰だ? 誰だよ! すると、靴下からウガちゃんが顔を出した。私はウガちゃんを靴下から引っ張り出した。デカい体のウガちゃんは老人のような目で私を見て、それからゴンドラの窓を見て、それから私を見てを繰り返す。
「もしかして、外を見たいとか?」
ウガちゃんがうなずいた。ような気がする。
「し、仕方ないな、もう」
私は怖い感情をごまかすようにウガちゃんをウントコショっと持ち上げて、ゴンドラの座席の上に置いてやる。ウガちゃんは窓の外を見ようと、前足で壁を使って身体を起こし、首を伸ばす。その間にもゴンドラはどんどん高く上っていく。家々の屋根もビルの屋上も、もう下を覗き込まなければ見えなくなっている。窓の外は青空しか見えない。
「ヒーー!」
私はもうどうしようもない気持ちになった。しかしウガちゃんは向かいの座席で、こちらに甲羅を向けて、窓の外を見ながらしっぽを振っている。いや、亀はしっぽを振ったりしない。私がめまいを起こしているんだ。私は座席に身体を横たえて、目を閉じた。ゴンドラがかなり上空にいることを証明するように、気温がかなり下がっているのを感じる。
しばらくじっとこらえていたが、ゴンドラはわずかな揺れとかすかな音をたてながらまだ動いている。今どのへんにいるのだろうか。もうてっぺんは過ぎただろうか。あとどれくらい我慢していたら地面に戻れるのだろうか。だめだ、泣きそうだ。とっくに涙は出てるけど、泣きそうだ。
「ねえ、一緒に外を見ようよ」
「は? 誰?」
私は目を開けた。ウガちゃんの首がこちらを向いている。老人のような目が私を見ている。
「今しゃべったの、ウガちゃん?」
ウガちゃんは何も言わない。そうだよね、ゾウガメだもんね?
そのウガちゃんの向こうに見えるのは、雲だ。ついに雲の上に出ようとしているんだ、このゴンドラは。そしてまだぜんぜんてっぺんには着きそうもない。落ちたらどうするなんて言葉はもう虚しいだけだ。落ちたら死ぬだけだ。落ちたら死ぬ。落ちたら、地面につくまでどのくらいの時間がかかるんだろう。一瞬だろうか、それとも一分間くらいあるんだろうか。その間に私はいったい何を考えるんだろう。どんな気持ちになるんだろう。落ちながら怖さのあまり漏らしちゃったりするんだろうか。恥ずかしい。
「ストップ!」
また声がした。私はウガちゃんを見た。ウガちゃんは、その老人みたいな顔で、はっきりと私にいった。
「妄想がひどすぎるよ、ストップ」
まるで昨日の同僚のように、ウガちゃんは私の妄想を止めた。
「う、ウガちゃん、喋れるの?」
「喋れるよ。ゾウガメだからね」
「ゾウガメって喋れるのが普通なの?」
「さあ?」
ウガちゃんはまるで人間みたいに私をからかった。ゴンドラはついに雲を抜けて、それから大気圏も抜けて、ついに宇宙に出てしまった。真っ暗な中に星が輝いている。
「この世で一番でかい観覧車って、本当にすごいな」
ウガちゃんがうっとりとそういった。
「ねえウガちゃん、ここってもうてっぺんかな?」
私はやっとの声でこう聞いた。ウガちゃんはうなずいた。
「大丈夫。あとは落ちる……じゃなくて、降りるだけだからね」
私は座席に横になったまま、再度目を閉じた。わずかな揺れと、かすかなきしみ音に恐怖を感じながら。涙と鼻水を流しながら。そろそろトイレも限界かも。
地面についてゴンドラから降りたら、まっさきに四次元靴下を脱いでウガちゃんを突っ込もう。それから家に帰って、靴下は居間の隅のウガちゃんスペースに放置しよう。ウガちゃんが出てきたら、靴下はもう洗わない。そのままビニール袋に入れて口を縛って、うーん、どうしよう。もう二度とはくことはないから、捨てなくてもいいよね? だって、お気に入りなんだもん。……そこまで考えたとき、ウガちゃんがいった。
「ねえ、もう一回、この観覧車に乗りたくない?」
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せりふ三題噺に参加しています。
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