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階段 #せりふ三題噺

 十三時。午後の仕事をするためにアイスコーヒーをいれる。冷蔵庫から冷たいコーヒーのボトルを出して、氷の入ったグラスに注ぐ。このコーヒーは香りがいい。グラスを持って仕事部屋へ行き、座って、窓の外を眺めながら、ひとくち、ふたくち、コーヒーを飲む。氷の音と深い香り。窓の外の葉桜。はっきりと意識に浮かび上がってはこないものの、なにか、わずかに、懐かしい気分がほんのりとコーヒーに混ざる。
「昼飯、ちょっと多かったかな。眠くなってきた……」
仕事部屋のソファーに横になり、窓越しの葉桜に目をやると、ほんの数秒で眠りに落ちる。

「やるなら今だよ」

 その声に、起こされる。しかしあたりには誰もいない。窓の外には葉桜。机の上のアイスコーヒーは解けた氷で薄まっている。
「夢かな」
そう思って身体を起こす。薄まったコーヒーを脇に避けて、パソコンに向かう。先週も二度、こんなことがあった。
やるなら今だよ。
この声、子どもの声だ。妙に懐かしい感じがするけど、聞いたことのない声。小学生時代の友人を思い出してみるけど、誰の声とも違う。風に揺れる葉桜。コーヒーの香り。

そうだ、屋上だ。

 放課後、職員室の前を通りかかったときに、深いコーヒーの香りがした。誰か先生が、コーヒーを淹れていたんだろう。自分はその香りに、ひたっと足を止めた。先生たちの雑談が聞こえてくる。
「屋上に……」
「……が…」
屋上に、何が?
 午後の日が傾く。校舎に人は少ない。階段には誰もいない。窓から差し込む光が階段にくっきりとした影をつくる。
「あれヨシ、帰んないの?」
友人が声をかけてくる。
「うん。ちょっと、屋上……」
「え、屋上?」
「今、先生たちの話してるのが聞こえてさ、屋上に……」
「やば、マジ? 行こうぜ」
足音を立てずに階段をのぼっていく。三階まで来ると、立ち止まって、いちおう上を見る。急にツヤを失う床材。あまり使われていないからだろう。そのツヤの変化が別世界への境界線のように思えて、なんとなく足が進まなくて突っ立っていた。その気持を振り払おうとしたとき、何かが聞こえた気がした。
「え、何?」
と友人に小声で聞いた。すると後ろから大人の声がした。
「どうした? 迷子か?」
さっき職員室にいた先生が、自分たちの気配に気づいていたのだろうか。気づかれないようについてきたのか、すぐ後ろに立っていて、ビクッとしてしまう。
「ち、違います!」
「そう。なら、早く帰りなさい」
さとられないように威圧感を込めるその言い方。
いわれたとおりに、友人とともに今上がってきた階段を降りる。
校舎を出るまで、無言だった。
帰り道で、やっと出た言葉。
「先生、なんか、すっげぇ怖かったよな?」
「ヤバい感じしたよな」
それっきり、そのときの話をすることはなかった。なんとなく避けてるうちに、忘れてしまっていた。あのとき屋上へ行っていたら何があったのか、もう永遠にわからない。

 こんなオチのない話は素人小説にもならない。
しかし、思い出話としてなら書いてもいいだろう。あの階段のくっきりとした影と、その先に何があるのかという妙な興奮は、その後の自分の階段フェチに繋がっている可能性大であるし、自分にとっては意味がある。

 連載中のエッセイが世に出る頃には、桜の面影はすっかり消えていた。うっかり昼寝をしてしまうこともなくなった。
 仕事部屋で一息ついていると携帯が鳴った。あのときの友人だ。エッセイを読んだのかもしれない。久しぶり、と挨拶をし、軽い近況報告と他愛もない冗談をかわした。その後、彼はちょっとトーンを落として言った。
「お前、あのとき、やるなら今だよって言ってたよな。あれ何だったの?」

 ……いや、それ、俺じゃない。


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