イギー・ポップにやられっぱなし。僕がnoteを始めた理由。
僕が初めて書いたnoteは、今年の4月2日に東京ガーデンシアターで開催された、イギー・ポップのライブレポみたいな記事でした。
考えてみれば、イギーのライブが、僕の背中を押してくれた気がします。「吐き出せ」と。
イギーのライブに興奮しただけなら、「あ〜!楽しかった!やっぱイギー最高!」って満足して帰っただけなんでしょうけど、
実際、大いに楽しんだんですけど、
ライブ中、明確に「冷めてた」時間も、けっこうあったんですね。僕としては信じがたいことに。
これを認めるのには抵抗があったんですけどね。
13、4歳の頃、ビデオで観た映画「トレインスポッティング」の「ラスト・フォー・ライフ」が僕の思春期のトーンを決定づけ、
初めて買ったロックアルバムがイギー・アンド・ザ・ストゥージズの「ファンハウス」でした。
冗談でなく、僕が僕の人生に於けるセルフ年表を作るなら、イギー前、イギー後は超重要です。
それは僕が初めて自分を生き始めた日、とすら言えるかもしれません。
そんなイギーのライブで、冷めてた時間があった。
それは、イギーのパフォーマンスに問題があったわけでは決してありません。むしろ最高でした。
どう最高だったか。怖かったんです。
23年間、愛してきた存在が。
イギーの凄まじいパフォーマンスは、それを観る僕の「妥協」、「ぬるさ」を強烈に照らし出すかのようで、冷や水を浴びせかけられたようでした。
僕が冷めたのは、ある種の防衛本能のようなものだったのかもしれません。
「ヤッベ!」って。この人、相変わらず、マジだ。
そうとも、殺気ひとつなしに、イギーなものか。
舐めてた。ファンの僕が、一番イギー舐めてた。
ライブ中には、そういう風に考えてはなかったんですけどね。表面上は。
時間が経って、いま、ちょっとその時の心理状態を言語化できてる感じです。
「表現する」って、別にアーティストじゃなくても、ヒトが常に行なっていることだと僕は思ってます。
それこそ、深く眠っているときでも。
でも僕自身に関しては、「それで十分」とは、どうやら本音では言えなかったようです。
そのことを自覚させてくれたのが、イギー・ポップのパフォーマンスでした。
noteがあって良かった。
ものぐさな僕は、noteのように気軽に始められるものが無ければ、時間が経って、やっぱり日和っていたに違いありません。
自分が書いた文章を公開するなんて大それたこと、いま自分がやってるなんて、信じられません。
イギー・ポップにはいつもやられます。

