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荒木村重の逃亡は合理的軍事行動! 命を賭した摂津一向衆との絆【豊臣兄弟24話】

大河は史実再現ドラマではなく、歴史エンタメであり、尺の制限もある…それは理解してます。
しかし、近年突き止められた史実は極力、拾って欲しいですね。

史実は伝承よりも熱く、ドラマチックです。
それを演じるに相応しい、個性派俳優のトータス松本さんを擁しながら、定説の「荒木村重・逃亡」ストーリー。

誤解釈により卑怯者として語られる、荒木村重。
今夜はそんな彼の名誉の為、筆圧を込めて綴りたいと思います。

平成5年(1993)、熊本市の調査により、一次史料「乃美家文書」の存在が明らかになりました。
毛利重臣の乃美家に伝わる、村重からの書状で、当時の詳細な情勢解説と、支援要請が記されています。
その史料に基づき、史実を語りたいと思います。

ドラマの方も、理解が難しくなる箇所に入ってます。
「今日の蘊蓄のコーナー」では、筆者自身の頭脳を整理する為にも史実年表を作成し、ご覧いただきながら解説します。

先ずはトピックをご覧後、お楽しみください。

本日のトピック〜速報番組感想


・今回も主人公の小一郎が、あちこちに無理やり関わる、所謂「江」スタイル〜分かってないな 大河は群像劇だから面白いのに

・有岡城包囲にはいたんだけど、三木城との間で毛利からの補給連絡断ちが役目だった 

・降伏交渉の担当はチラッと映った、信澄の仕事だった 

・やはり予想通り、村重が惨めに「死にとうない!」と逃げ出すストーリー

・なればこそ、村重の名誉を守るため、今回の蘊蓄を用意した

・このドラマ、よく信忠が出る 台詞の多さは大河史上一番 ねらいは何だろう?

・今週も本願寺出ないな 次回ぐらいにいきなり、ナレで石山本願寺と講和ってか?

・本能寺の変まで あと二年 のテロップが最後に…これは良いんじゃない? 雰囲気出てる

・BS版で見たんだけど、今日も次週予告が無かった あれを楽しみにしてる方も多いだろうに、早急に復活すべきかと


今週の蘊蓄・推論

1 年表

取り巻く情勢悪化と、拠点の移動により、毛利の救援を待ち続けた村重の語られない期間の記録である。

天正7年(1579)

10月 荒木村重、有岡城にて謀反

11月  第二次木津川の戦いで織田の鉄甲船が毛利水軍撃破

12月 毛利輝元、東上の出陣を決意、年明け出発を決定

1月 毛利軍の出陣を前に家臣の杉重良、豊後の大友氏と結び謀反 出陣取り止め、九州防衛対応

9月 荒木村重、有岡城を脱出、尼崎城に入り、毛利から派遣された桂元将と合流
〜解説①御参照

10月 宇喜多直家、織田方の調略を受け毛利から寝返る 
〜解説②御参照

11月 村重本拠、有岡城落城

12月 尼崎城の毛利派遣将・桂元将、石山本願寺に転出

天正8年(1580)

1月 別所長治の三木城落城、村重は、尼崎城を離れ花隈城に

2月 本願寺顕如、信長と講和、石山本願寺を退去
長男教如は講和を拒否、退去せず

7月 花隈城の戦いに敗北、村重は毛利領に亡命 
〜解説③御参照

8月 教如、毛利家家老達と共に石山本願寺退去、石山合戦終了
村重長男が籠城していた尼崎城が降伏開城、荒木村重の謀反完全終了

解説① ~尼崎への移動の真実
ドラマのように、こっそり毛利領に逃亡ではなく、御前衆と呼ばれた精鋭部隊数百人と共に織田軍の包囲を突破、尼崎城に入った。

毛利水軍敗退の為、本願寺から兵站が回らなくなり、毛利から直接海路補給を受けられる尼崎への移動は必至だった。
毛利水軍は瀬戸内海の制海権は保持。

尼崎移動は、生き残りを賭けた積極的軍事行動。
兵站確保と毛利の督促を強化して現状打開を模索した。

平成初期の一次資料の発見を無視し、過去の荒木逃亡説をドラマは採用したが、物語の尺合わせに丁度いいタイミングなのか。

解説②〜宇喜多直家の謀反。
状況から、毛利上洛不可を判断。
将軍・義昭を京に運べないと、只の地方反乱だ。
目前に展開する羽柴軍をより脅威と見た。

ドラマのように、銀で籠絡ではない。
当時戦地の生野銀山の採掘は停止中。

元就の時代に周囲を敵にし、戦線が長い毛利に上洛は困難だった。
義昭に頼られ冷静な判断を欠いたか、信長包囲網を過信したのか。
領内の鞆に幕府を拵えたが、西部各地の支持は得られず。

当初路線通り、織田との同盟を保持し、周辺を固める時期だった。

備前を領する宇喜多直家が敵に回り、瀬戸内海の中継点を失った毛利は、荒木の支援さえ困難に。
上洛の夢敗れ、領土の条件闘争に目的は変化した。

解説③〜 花隈移転の狙い
更に海上補給が受けやすく、山と海に挟まれ守り易い花隈に移動、毛利を待った。

本願寺講和に反対する勢力、雑賀衆鉄砲隊や摂津一向宗などが多数入城、抵抗の末、落城。村重は海路、毛利領に亡命した。

有岡城ー尼崎城 徒歩1時間48分 自転車37分       
尼崎城ー花隈城は海路で移動したと思われる


2 一連の事件と一向宗の関係

総本山・石山本願寺のある摂津では、一向宗と特殊な関係。
最後まで村重と行動を共にした、摂津一向宗について述べる。

摂津では領主の城下町とは別に、一向宗寺院を中心に寺内町が形成され、相互に利用・依存し合って経済を繁栄させてきた。

摂津の高槻・富田を例に、その関係を説明。

① 高槻の統治事情

荒木村重の与力・切支丹大名の高山右近が領する。
他の切支丹大名と同様、右近は宗教勢力を圧迫。
神社や真言宗寺院には圧力をかけ、立退や建造物の城郭材転用などを行った。

しかし領内の富田には、北摂最大の一向宗拠点の富田道場があり、寺内町が形成されていた。

現地図では、高槻駅から西に一駅目が富田駅という、付かず離れずの絶妙な距離で共存した。

租役が免除の謂わば「経済特区」だが、物流と周辺を統制、低行政コストで領内全体の経済を発展させた。

戦等の資金需要時には、上納や融資の形で金融機能を果たす代わりに、信仰が保証され、外敵から守られる、相互依存の関係。

重要なのは、その旧態依然とした「摂津式経済」は信長の楽市楽座などの新しい「開かれた市場経済」とは全く相容れないものだったことだ。
ここに村重たち武将から庶民まで、去就に苦悩する根源があった。
「上様のやり方やったら摂津の民は、食うていかれへんやないか!」
村重の悲痛な叫びが聞こえるようである。

謀反の戦い序盤で右近は織田勢に降伏帰順したが、富田の一向宗は村重と行動を共にした。


②毛利の一向宗事情

中国地方にも宗徒は多く、家老や水軍にも広がっていた。

そのため、10名を超える家老達が石山本願寺の籠城に加わり、連絡将や実戦の指揮を務めた。

水軍は甚大な被害にも関わらず、木津川へ侵入を繰返し、一部の兵糧弾薬を陸揚げした。

花隈城に上陸、籠城に自主的に参加した毛利兵も、落城まで行動を共にした。

これらは毛利への忠誠心ではなく、宗教的献身だ。

毛利家の勝負では割り切れない事情だが、家中を割る訳にはいかない。

それが派兵が不可能になっても補給だけは続けた理由だ。
その分、戦は長期化、村重も苦しんだ。

3 おわりに

武将として、統治者として、そして人として。
苦悩の末に下した決断の結果はどうあれ、筆者は荒木村重を単なる卑怯者と断じる一般的な認識に改めて異を唱えたい。

来ない援軍を待ち、結果的に家族や家臣、民を巻き込んだのは事実である。
しかし村重が命懸けで守ろうとした摂津の民、一向宗徒達は、敗北必至の最後の戦いに駆けつけ寄り添った。
これこそ村重が卑怯者でも、人でなしでも無かったことの証明ではないか。

毛利への亡命も、再帰を賭けた執念だった。
それ故、講和に転じた毛利には村重は、もはや危険人物として監視の対象となった。

信長の死後、村重は茶人・道薫として利休七哲の一人に数えられた。
堺の支援を得て利休高弟に上り詰め、後に秀吉の御伽衆(相談役)として復帰できたのは、彼の人格が認められていたからに他ならない。

権力に翻弄された村重は、我が身を晒して生涯の残りを生き抜くことで、彼を利用した挙句に捨てた者達を無言で弾劾し続けた。


長きに渡る、荒木村重考察ですが、幾分でも、彼の名誉回復に繋がったなら、筆者として最上の喜びです。

村重を演じた俳優のトータス松本さんの気迫溢れる熱演・人間味が、何度も筆を取った原動力になりました。

最近では、当ブログの記事がGoogle検索やGeminiの参照資料に取り上げられる機会も増え、大変光栄に感じております。
これも読者の皆様の御支援の賜物と、心より感謝申し上げます。
今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。


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