会えた人と、会えなかった人
立ち見の、その向こう側
三連休の午後だった。
子どもは昼寝をしている。
遊び疲れたのだろう。寝室からは規則正しい寝息だけが聞こえ、リビングには久しぶりに静かな時間が流れていた。
コーヒーを淹れ、少し冷めるまでのあいだ、なんとなくスマホを開く。
流れてきた記事には、ある相談員のトークイベントに立ち見が出たことが書かれていた。
四十年で四千組の親子と向き合ってきた人だという。
その数字だけで、積み重ねてきた時間の長さが伝わってきた。
だから、立ち見が出ることにも驚きはなかった。
多くの人が、その人の話を聞きたいと思ったのだろう。
それだけ信頼されてきた人なのだと思う。
けれど、記事を閉じても、私の中に残ったのは別の光景だった。
椅子が足りず、後ろで立ったまま耳を傾ける人たち。
その人たちは、何を求めてそこへ来たのだろう。
きっと、答えは一つではない。
励ましてほしかった人もいただろう。
子育てのヒントを探していた人もいただろう。
ただ、その姿を思い浮かべながら、私は少しだけ違うことを考えていた。
これほど多くの人が、一人の話を聞きたいと思う。
それは、その人がすごいという話であると同時に、その人へたどり着きたいと思う人が、それだけいるということでもあるのではないか。
記事には、一人の母親が、いくつもの支援を探し歩き、ようやくその相談員へたどり着いた経緯が書かれていた。
読んでいて印象に残ったのは、「外注」という言葉だった。
その一言に涙があふれたという場面を読みながら、私は自分のことを思い出していた。
仕事が長引き、お迎えが遅くなる日がある。
保育園へ急ぎながら、時計を何度も見てしまう。
先生方はいつも穏やかに迎えてくださるし、子どもも楽しそうに遊んでいる。
何も責められてはいない。
それでも、ときどき胸の奥で、「今日もお願いしてしまったな」と思うことがある。
保育園は、親が安心して働くためにもある場所だ。
そんなことは分かっている。
それでも親になると、理屈だけでは片づかない感情が、ふと顔を出す。
だから、記事に出てきた母親の涙も、一つの言葉だけで生まれたものではないのだろうと思った。
きっと、その前に積み重なってきた時間があった。
誰にも見えない迷いや、孤独や、「これでいいのだろうか」という問いがあった。
ただ、その歩みを読みながら、もう一つ考えてしまったことがある。
そこへたどり着くまでに、立ち寄れる場所は、もう少しなかったのだろうか。
特別な誰かを探し当てなければ、支えに出会えない。
そんな社会であってほしくない、と私は思う。
学校で働いていると、似たような言葉を耳にすることがある。
「あの先生だったから気づいてもらえた。」
「あの養護教諭だったから話せた。」
その人たちを、私は心から尊敬している。
誰か一人の存在に救われる子どもがいることも知っている。
けれど、その話を聞くたびに、少しだけ考えてしまう。
もし、その人が異動していたら。
もし、その日に休んでいたら。
もし、その学校にいなかったら。
子どもの安心が、そんな偶然に左右される社会でいいのだろうか、と。
昼寝から目を覚ました子どもが、眠そうな顔でこちらへ歩いてきた。
抱き上げると、今日見た夢だったのか、午前中の出来事だったのか、自分でも整理できていない話を、一生懸命聞かせてくれる。
私は「そうなんだね」と相づちを打ちながら、その小さな体を抱いていた。
子どもは、誰と出会うかを選べない。
親もまた、困ったときに、必ずよい支援へたどり着けるとは限らない。
だからこそ、願ってしまう。
誰か一人の力に出会えた人だけが安心できる社会ではなく、特別な誰かに会えなくても、自然と支えにつながれる社会であってほしい、と。
記事には、立ち見が出たと書かれていた。
あの日、足りなかったのは、会場の椅子だけだったのだろうか。
その問いだけが、記事を閉じたあとも、静かに残り続けている。
