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【雑感】一場面の下にある、名もない日常



夜、遅く帰ると、子どもはもう眠っている。

洗った哺乳瓶が伏せて並び、明日着る服がたたんで置いてあり、少し赤くなっていた頬には薬が塗られている。体温を測った記録も、冷蔵庫にメモしてある。すべて終わったあとの部屋。僕はそこに、静かに立つだけだ。

これまで書いてきた育児エッセイは、嘘ではない。休日に公園へ連れて行ったのも、夜泣きの一場面であやしたのも、離乳食を食べさせて失敗したのも、実際に僕がやったことだ。家事もするし、子育てにも関わっている。そこは、はっきりさせておきたい。

自分の担当を並べてみる。皿洗い、風呂、休日の外遊び、寝かしつけの一部。仕事の日は帰りが遅くなるから、平日にできることは限られるが、それでも、やっていないわけではない。誇張するつもりも、卑下するつもりもない。ただ、時間の総量で見れば、僕の担当は少数派だ。

ただ、読み返して思うことがある。エッセイになるのは、いつも「一場面」だということ。休日の公園、夜泣きの十分間、離乳食の一皿。そのどれもが本当にあったことだが、一日のうちの、ごく一部を切り取ったものでもある。切り取られなかった残りの大半を、日常的に支えているのは妻だ。

これまで書いた場面を全部並べても、一年の日常のほんの一部にしかならない。残りの三百何十日は、記事にはならず、ただ過ぎていく。そこにも、当然、子育てはあった。

なぜ「一場面」の方が書きやすいのか、考えてみた。物語には、始まりと終わりがいる。公園には帰り道があり、夜泣きには寝入る瞬間があり、離乳食には食べ終わる皿がある。区切りのあるものだけが、文章になりやすい。

一方、日常はそうはいかない。体調を見ながら保育園を休ませるかどうかを決める判断。季節ごとに服のサイズを見直し、次に必要なものを先回りして揃える作業。予防接種の予定や、哺乳瓶の消毒のタイミングを、頭の片隅で管理し続けること。夜中に一度、様子を見に行く習慣も、いつのまにか妻の日課になっている。これらには始まりも終わりもない。ただ、続く。続くものは、区切りがないぶん、エッセイになりにくい。物語にならないからといって、存在しないわけではないのに。

教室でも似たことがある。生徒の成長を語るとき、僕らは決まって「あの一言」や「あの瞬間」を選んで話す。でも、その一瞬に至るまでの、地味な繰り返しの授業や声かけの方が、実際には何倍も長い。目立つ場面だけを語ると、その手前にある膨大な日常が、静かに見えなくなる。それは誰のせいでもない。語りというもの自体の、そういう仕組みだ。

僕のエッセイも、同じ構造を持っている。一場面を書けば書くほど、その下にある日常――妻が支えている日常――が、輪郭を失っていく。悪気はなくても、書くという行為自体が、そういう性質を持っている。

コメント欄には、時々「素敵な父親ですね」という言葉が届く。ありがたい言葉だと思う。ただ、その言葉が向かう先は、いつも一場面を書いた僕だけだ。一場面を成立させている、その手前の長い時間には、なかなか届かない。届けようがない、というのが正しいのかもしれない。読む人には、切り取られた場面しか見えないのだから。

だから、これは訂正ではなく、補足のつもりで書いている。今まで書いてきた場面は、どれも本当にあったことだ。ただ、その一場面が成立するためには、その前後にある、もっと長くて地味な時間が要る。その時間を支えているのは、ほとんど妻だ。

一場面を切り取って喜んでもらえるのは、素直にうれしい。でも、その喜びの宛先が、いつも僕だけになってしまうなら、少し据わりが悪い。切り取られた場面の下には、切り取られなかった日常があって、それを支えている人がいる。そのことを、時々でいいから、書いておきたい。

これから書く一場面にも、同じことをしたい。エッセイの最後に、一行でいい。この場面は、日常に支えられて成立している。そのくらいの断り書きを、どこかに残しておきたい。派手な宣言としてではなく、ただの注釈として。

今夜も、子どもはもう眠っている。伏せられた哺乳瓶と、たたまれた服と、薬を塗られた頬。洗面所には、いつのまにか新しい絆創膏の箱が補充されている。この一場面もまた、いつか記事になるかもしれない。でもその前に、今日はひとこと、妻に伝えようと思う。

ありがとう、と。

この一場面を、今日も支えてくれて。


初めての方はこちらもぜひ。
https://note.com/open_roses1269/n/nb6c5cd95ff40

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