暑い 夏休みの職員室で

職員室の窓際で、扇風機が生ぬるい風を掻き回している。机の上のうちわは、もう何年も同じ場所にある。誰のものかは、誰も知らない。

朝の会議で、配布資料が手の湿気で波打つ。隣の教室にはエアコンが効いていて、生徒たちは涼しい顔でノートを取っている。廊下を挟んだだけで、体感温度は五度は違う。

先に断っておくと、これは愚痴ではない。設備の話に見えて、実は仕組みの話だ。

学校のエアコン整備は、まず教室から進む。予算のつく順番も、工事の優先順位も、常に「生徒のため」が先頭に立つ。誰も反対できない理由だからだ。職員室は、その次、あるいはその次の次。老朽化した校舎ほど、後回しは長引く。

数年前、誰かがポータブルクーラーの導入を提案したことがある。返事は「来年度、検討します」だった。来年度になると、また「来年度」と言われた。今では誰も言い出さない。言わないことが、暗黙の了解になった。

この順番自体は、間違っていないと思う。子どもの学習環境を優先するのは当然だろう。保護者にも、そう説明できる。

問題は、その「当然」の裏にある前提だ。教員は、暑さくらい我慢できる。我慢すべきだ。そういう暗黙の合意が、言葉にされないまま、予算配分という数字の形で毎年静かに更新されている。

夏になると、熱中症対策の通知が何枚も回ってくる。水分補給をこまめに、休憩を挟んで、無理はさせないで。すべて、生徒に向けられた言葉だ。同じ紙を書いている教員自身に向けた一文は、どこにもない。

体力の消耗は、記録に残らない。午後の職員会議、誰かの相槌が急に鈍くなる。集中力が切れただけだと、みんな思う。本当は、教室との温度差が、じわじわ体力を削っているだけかもしれない。誰もそれを疑わない。倒れて初めて、暑かったのだと気づく。

これは、空きコマに補教を頼む話や、部活動を「顧問の情熱」で回してきた話と、根っこは同じだ。教員という資源は、いくらでも伸びると思われている。伸びなくなったときに、初めて誰かが気づく。それも、たぶん本人が倒れてからだ。

生徒の快適さは、学校の顔として語られる。教員の体調は、個人の自己管理として片づけられる。同じ校舎の中に、優先順位のはっきりした二つの温度がある。どちらも、誰かが決めたわけではない。ただ、そうなっているだけだ。

これがもし、労働安全衛生の問題として扱われたら、少し違ったかもしれない。一般の職場なら、暑さ指数が基準を超えれば、事業者には対策の義務が生じる。学校でそれが語られるとき、なぜか「文化」や「働き方」の話にすり替わる。義務は、努力目標より弱い言葉に変わる。

職員室の温度計は、今日も三十度を超えている。誰も測っていないから、誰も知らない。扇風機は、今日も生ぬるい風を、律儀に掻き回し続けている。

いいなと思ったら応援しよう!