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【教員の働き方改革】「部活だけは来る」が終わる日



土曜の朝、保育園から届く連絡帳の写真に、うちの子が写っている。水遊びでずぶ濡れになり、次のページでは太鼓を叩き、体操教室でマットの上を転がり、給食の時間には知らない野菜を口に運んで、笑っている。

水遊びの先生、音楽の先生、体操の先生、栄養士。担任一人がすべてを背負っているわけではない。専門家に囲まれて、子どもは迷いなく笑う。

この幅の広さは、いつまで続くのだろう。

職員室では、よくこんな報告を聞く。

「部活だけは来るんです」

担任がそう言うとき、たいてい少し誇らしげだった。教室には入れない。授業も受けられない。それでも部活動の時間になると、体操服に着替えて、その子は校門をくぐる。顧問の顔を見に来る。

中学に上がる頃には、保育園にあった幅の広さは、たった一つの窓口に集約されている。授業は「みんなと同じ」を求める。部活動だけが、その子なりの居場所を許した。顧問という一人の大人が、制度の外側で生徒と関係を結び直す。ただ一緒にボールを追う人間が、教室に戻る前の足がかりになった。

これは仕組みではなく、人でできていた。長く学校は、教科の外側にある人格形成の役割を、部活動という大きな枠組みに担わせてきた。専門家を何人も置く保育園とは違う。中学校では、その窓口はほとんど一つしかなかった。

だが、その窓口も、いま閉じつつある。

国のCOCOLOプランは、「教室に戻すこと」を唯一のゴールとする発想を、すでに手放した。「戻ってきたら成功」という物語は、もう国の言葉ではない。学びたいと思ったときに学べる場所を、教室の外にも用意する方針へ変わっている。部活動自体も、2026年度から6年がかりの「改革実行期間」に入り、休日はすべて、平日も段階的に、学校の外の地域クラブへ委ねられていく。指導するのは、研修を受けて登録された地域の人材だ。「顧問」という立場そのものが、制度の上でも学校の外へ移り始めている。

「部活動で引っ張る」というやり方は、目的と担い手の両方から根拠を失いつつある。

うまく回れば、風景は保育園に近づく。土曜の体育館で球を拾うのは、資格を持った地域の指導者になり、子どもは卒業後も同じクラブでラケットを握り続けられる。学びの多様化学校や校内支援室に通った日々も、いまは出席として数えられる。理屈の上では、子どもの居場所は学校の中だけではなくなり、誰か一人の善意に支えられなくても済む設計へ近づいていく。

ただし、それは受け皿が整った先の話だ。平日まで地域に委ねる自治体は、今の時点でも四割に届かない。文化部はなおさら心もとない。吹奏楽や美術を引き受けてくれる地域団体は、運動部より少ない。不登校の子どものうち、専門的な支援につながれている子どもも、いまだ半数程度にとどまる。

だから私は、部活動の地域移行そのものには賛成している。休日の指導に費やしていた時間を、授業を磨くことや、生徒一人ひとりと向き合う時間へ戻せる。その方が、本来の学校の役割にも近いと思う。教員の善意だけで居場所を支える仕組みは、長く続けられるものではない。誰か一人の献身に支えられる制度は、その人が異動した瞬間に終わってしまう。持続可能とは言えないからだ。

それでも、「あの子は部活動があったから救われたのに」という同僚の言葉を、私は否定したいわけではない。その言葉は、制度では救えなかった子どもを、たまたま一人の顧問が支えてきた歴史を知っているからこそ出てくる。実際に、その一人の大人との出会いが学校とのつながりを切らさずに済んだ子どもは、確かにいた。

だから必要なのは、部活動を学校へ戻すことではない。部活動が担ってきた「居場所」という機能を、学校の外も含めた別の仕組みへ引き継ぐことだ。地域クラブでも、校内支援室でも、学びの多様化学校でもいい。

「部活だけは来る」という物語を、「ここだけは来られる」というもっと広い選択肢へ置き換えられるか。

そこが、この改革の成否を分けるのだと思う。

良かったはずのものが、過渡期には賛否両論になる。そのものの価値が変わったのではない。それを支えていた仕組みが変わり、同じ行為の意味が変わってしまうからだ。「引っ張ってくれる顧問」は、昨日までは献身だった。これからは、その役割を一人の教員ではなく、複数の専門職や地域全体で支える時代へ変わっていく。物差しを変えるということは、過去を否定することではない。これまで個人が担ってきた役割を、社会全体で担い直そうとすることなのだと思う。

仕組みを変えるだけでは足りない。受け皿も、人の納得も、一緒につくらなければならない。制度だけ先に動けば、「あの子は誰が支えるのか」という不安だけが残る。だから私は、地域移行そのものには賛成しながらも、その空白を埋める議論までセットで進めてほしいと思っている。そうでなければ、部活動への善意依存が、別の誰かへの善意依存へ形を変えるだけだからだ。

うちの子は今日も、水遊びで笑っている。専門家たちに囲まれて、迷いなく。

あと数年で、その環境は学校へ変わる。その頃には、「部活だけは来る」という一つの居場所ではなく、その子に合った居場所を、いくつもの大人が支えられる学校であってほしい。

保育園で当たり前だった「専門家に囲まれて育つ」という風景が、形を変えながら学校にも続いていてほしい。

そんな仕組みが、当たり前の未来になっていてほしいと願っている。



以下おまけ

初めての方はこちらもぜひ。
https://note.com/open_roses1269/n/nb6c5cd95ff40

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