【雑感】その「あー」は、妻には届く
夜、8時前。
その日は、生徒の作文を30人分読んで、少し疲れて帰ってきたところだった。
子どもがリビングの隅を指差して、「あー」と言う。
何かを訴えているのは、わかる。
けれど、その先がわからない。
「お茶?」
「絵本?」
「眠いの?」
「あっちの部屋に行きたいの?」
聞くたびに、首を振る。
声は、だんだん大きく、だんだん低くなっていく。泣く一歩手前の、あの独特の震え方で。
しゃがみこんで、目線を合わせる。
指差す方向を、何度も目で追う。
棚、窓、テレビの横。
何もないように見える場所を、子どもは指し続ける。
こっち?
これ?
違う。
全部、違う。
わからない。
本当に、わからない。
わたしは国語科の教員である。
十年以上、生徒の書いた文章から書き手の心情を読み取る仕事をしてきた。行間を読め、と教えてきた。この一文の裏に何があるか、と問い続けてきた。心情曲線を描かせ、助詞ひとつの選び方に、書き手の迷いを見つけさせてきた。
読解には、ある程度の手順がある。
どの言葉に立ち止まるか。
どの表現が、それまでの流れから少しだけ外れているか。
そんな観点を整理し、生徒にも伝えられるようにしてきた。
先週も、ある生徒の作文で、途中から急に文が短くなる箇所があった。
本人は何も言わなかった。
けれど、その息継ぎのような改行の入れ方で、何かあったとわかった。
放課後、少しだけ声をかけた。
案の定だった。
読める。
生徒の書いた、たった一文の乱れからでも、読める。
なのに、目の前の「あー」ひとつ、読めない。
手順化したはずのものが、まったく役に立たない。
妻がキッチンから出てくる。
子どもの顔を見て、指の先をちらりと確認して、何も聞かずに抱き上げる。
窓辺まで歩いて、外を見せる。
子どもは、すぐに泣き止む。
妻は特に説明しない。
ただ、ニコニコしている。
その笑顔が、いちばんこたえる。
生徒の文章には、型がある。
起承転結があり、句読点があり、少なくとも「伝えよう」という意志のもとに選ばれた言葉が並んでいる。
わたしの仕事は、その型の中で、書き手が何を言おうとしたのかを推測することだった。
型があるから、外れ方でわかることもある。
子どもの「あー」には、型がない。
句読点もなければ、共有された語彙もない。
文脈も、前後の段落もない。
あるのは、意味になる一歩手前の、剥き出しの音だけだ。
読む技術というのは、結局のところ、すでに誰かと共有された約束事の上でしか働かない。
生徒とわたしは、同じ教室で、同じ言葉を使って生きている。
だから読める。
子どもとは、その約束事すらまだない。
読む技術は、そもそもこの「あー」には通用しない。
通用しないものを、十年以上かけて磨いてきたのかもしれない、とさえ思う。
妻は、たぶん「読んで」いない。
読解ではなく、もっと別の回路で、子どもとつながっている。
競われているわけでもないのに、自分だけ届いていない気がする。
届いていない、というのも正確ではない。
妻は、そもそも同じ土俵に立っていない。
読もうとすらしていない。
だから、勝ち負けの話にすらならない。
そのことが、いちばんこたえる。
妻がわかるのは、たぶん「母性」ではないと思う。
一日のうち、子どもとどれだけの時間を過ごしてきたかの、ただの蓄積だ。
指差す先。
声のトーン。
機嫌の波。
何百回、何千回とその場に居合わせてきた分だけ、自然とわかるようになっていく。
わたしは、その時間の多くを、教室で過ごしてきた。
生徒の心情を読む時間を積み重ねる一方で、この子の「あー」に付き合う時間は、圧倒的に足りていない。
だとすれば、これは敗北というより、単純な不在の結果なのだと思う。
そう考えても、胸の奥が少し痛むことに変わりはないのだけれど。
なぜ、自分だけそこに届かないのか。
考えても、答えは出ない。
出ないまま、また同じような夜がくる。
たぶん、これは訓練で身につくものではない。
毎日そこにいて、毎日同じ「あー」を聞いて、その積み重ねの中でしか育たないものなのだろう。
その夜もまた、子どもは同じ場所を指差した。
「あー」
今度は、聞かなかった。
質問を並べるのは、やめた。
ただ黙って、子どもの視線の先を一緒に追った。
窓の外だった。
何を見ていたのかは、やっぱりわからない。
それでも、その子が見ている方向だけは、隣で見ていた。
妻のように笑うことは、まだできない。
でも、たぶん今のわたしにできるのは、それくらいなのだと思う。
初めての方はこちらもぜひ。
https://note.com/open_roses1269/n/nb6c5cd95ff40
