ウドの大木、自分の言葉
この連載は、わたしの中から出てきたものだ。
「普通」を宗教として書こうと思いついたとき、教義も戒律も偶像も、誰かの本から借りたわけではなかった。自分がずっと、普通になれないことに怯えていた。普通になれた気がして安心したこともあった。その振れ幅を、信仰として並べ直しただけだ。
だから、これは発見ではなく告白に近い。
ところがおかしなことが起きた。
書き上がった文章を、後日あらためて読んだ。神は「みんな」だと書いてあった。聖典は「常識」で、罪は「浮くこと」だと書いてあった。普通degreeは0.0から1.0まであって、1.0は仕様として存在しない、とも書いてあった。
それを読んで、わたしは少し救われたのだ。
自分で書いたはずなのに、まるで他人の手紙のように効いた。これはAIに言語化を手伝ってもらった文章で、半分は外から来た声の手触りがある。自分の中にあったものが、一度外に出て、形を変えて、戻ってきた。戻ってきたときには、わたしを少しだけ立たせる力を持っていた。
自己参照のループだ、と気づいた。
出発点は自分だった。それを外に出した。外に出たものを読んで、入口の自分が上書きされた。蛇が自分の尾を呑むように、ことばが一周して、最初の自分のところへ帰ってくる。帰ってきたことばは、出ていったときより少し強い。
これはずるい救いだろうか。自作自演の慰めだろうか。
そうかもしれない。でも、ずるくない救いなんてあるのか、とも思う。誰かにかけてもらった励ましだって、結局はその人の中を一度通って出てきたものだ。外から来た声が効くのは、それが自分の中の何かに触れたからだ。だとすれば、最初から自分の中にあったものが効くのは、別におかしなことではない。
ただし、油断はしない。
第6回で書いたとおり、「普通を憎む教」もまた一つの宗教になる。自分のことばに救われた、という話も、繰り返せばウドの大木になる。背が高いだけで使いものにならない、あの木だ。「自分の声に従えば救われる」を戒律にした瞬間、新しい普通教が始まってしまう。
だから最後に、いちばん地味なことを書いておく。
ことばは一周して戻ってくるが、姿勢を正すのは結局わたし自身だ。文章は背中を押してくれるが、立ち上がるのは押された側の仕事だ。神を数え、奥付を確認し、戒律を助言に降ろし、儀式を案件ごとに選ぶ。その手を動かすのは、いつも自分の手でしかない。
採録者は、今年も初詣に行った。
普通教を解体しておきながら、である。矛盾しているようで、たぶんこれでいい。普通degreeを0.0にする必要はない。0.7くらいの信徒のまま、行きたいときに鳥居をくぐればいい。1.0でないと知っているなら、それはもう信仰ではなく、ただの散歩だ。
ここまで読んでくれた人へ。
この連載のことばが、もし少しでもあなたの背筋を伸ばしたなら、それはたぶん、あなたの中にもう在ったものだ。わたしの手紙が、あなたの中の何かに触れただけだ。だから次は、あなたが自分の手で、自分宛てに書いてみてほしい。
入信した覚えのない宗教から、自分の足で出ていくために。
