見出し画像

知財業界と専門分野 —— 代理人が、リングに上がってしまった話

今日、7月1日は「弁理士の日」です。
1899年(明治32年)のこの日に「特許代理業者登録規則」が公布されたことに由来します。

去年までの私なら、この日はたぶん、「弁理士として」何かを書いていたと思います。
ただ、今年は少し事情が違います。

この2年ほどで、自分の名刺には書いていない肩書きが、ひとつ増えてしまいました。

発明者です。

弁理士という仕事は、本来、発明者の代理人です。
発明した人の横に立ち、そのアイデアを言葉にし、権利という形に整えて世に送り出す。

ボクシングでいえば、セコンドのような立場です。
リングの外から、タオルとバケツを持って選手を支える側。

ところが気づけば、私はリングの上にいました。

代理人が、当事者になる

弁理士になってから、私は1000件以上、他人の発明をクレームにしてきました。
クレームとは、特許の権利範囲を定める文章です。

「この発明は、つまりこういうことですよね」

そうやって、発明者の頭の中にあるものを、特許の言葉に翻訳し続けてきました。

そんな自分が、ある日、自分の名前を「発明者」の欄に書くことになるとは、正直あまり想像していませんでした。

きっかけは、やはり生成AIです。

もともとは、自分の弁理士業務を少しでも楽にしたくて、生成AIを使った特許文献の読解支援サービスを作り始めました。
ところが、作っているうちに、その仕組み自体が次々と発明になっていきました。

代理人として「これはよい発明ですね」と言う側だったはずなのに、いつのまにか自分もグローブをつけて、リングの上に立っていた。
そんな感覚があります。

さらに、生成AIを使った発明をめぐる係争や紛争の実務にも関わるようになりました。
気づけば、この分野では国内でもかなり多くの現場を見てきた弁理士になっていたと思います。

ありがたいことに、「生成AI利活用発明の第一人者」と紹介していただくこともあります。
ただ、自分でそこを狙っていたわけではありません。
垣根が溶けていく現場に立ち続けていたら、結果的にそういう場所にいた、というほうが近いです。

異種格闘技戦は、もう始まっている

なぜ、こういうことが起きているのか。

理由は、かなりはっきりしています。
生成AIの登場によって、専門分野の垣根が一気に低くなったからです。

これまで「その分野の人でなければ触れない」と思われていた領域に、別の分野の人が踏み込めるようになりました。

化学のことを情報系の人が考える。
法律のことをエンジニアが考える。
知財のことを、弁理士自身がプロダクトとして考える。

それぞれの専門家が、隣の階級に上がっていく。
専門家どうしの異種格闘技戦は、もう始まっているのだと思います。

象徴的だったのが、2024年のノーベル賞でした。

化学賞は、タンパク質構造予測「AlphaFold」に関わった情報科学の人たちへ。
物理学賞は、ニューラルネットワークの基礎研究へ。

化学と物理という大きな分野の頂点に、情報科学の人たちが食い込んだ。
これは単に「情報科学が強い」という話ではありません。

情報科学が、あらゆる産業の共通言語になりつつある、ということなのだと思います。

だから、生成AIに関する発明は、知財にも、化学にも、自動車にも、医療にも、あらゆる分野にしみ込んでいく。
係争の現場も、当然のように分野をまたいでいきます。

インゴルドの言う「徒歩旅行者」として

では、なぜ私は、たまたまこのリングに上がることになったのか。

最近読んだ、人類学者ティム・インゴルドの『ラインズ』に、そのヒントがありました。

インゴルドは、人の移動を大きく二つに分けます。
輸送(transport)と、徒歩旅行(wayfaring)です。

輸送とは、A地点からB地点へ、できるだけ効率よく運ばれることです。
途中の道のりは、できれば短くしたいもの、あるいは省略したいものとして扱われます。
乗客は、ただ目的地へ運ばれる存在です。

一方で徒歩旅行は、歩くこと自体に意味があります。
歩きながら世界を知り、風景に触れ、その経験の中で自分自身も少しずつ形づくられていく。
歩いてきた線そのものが、その人である。
インゴルドは、そういう見方をします。

振り返ると、私のキャリアも、物理から知財へ、知財から経営へ、そして生成AIへと、いくつもの分野を渡り歩いてきました。
ただ、ここで自分史を長く語るつもりはありません。

大事なのは、ずっと徒歩旅行をしてきた人間は、線の途中で思わぬ交差点に出くわす、ということです。

知財の道と、AIの道。
私の中でこの二本の線が交わった場所に、たまたま発明という果実が落ちていました。

インゴルドは、線と線がもつれ合う網目のようなものを「メッシュワーク」と呼びます。
新しい発明は、いつもそういう交点で生まれるのだと思います。

AlphaFoldも、まさに情報と化学の線が交わった場所に生まれた果実でした。

肩書きは、歩いた後からついてくる

専門分野がどんどん変化していくことに、不安を感じる人は多いと思います。

せっかく積み上げてきた専門性が、明日には古びてしまうのではないか。
自分のいる場所が、いつのまにか主戦場ではなくなってしまうのではないか。

そう感じるのは、自然なことだと思います。

ただ、徒歩旅行者にとって、歩いてきた道は無駄になりません。
見てきた風景は、必ず身体に残ります。

そして面白いことに、肩書きのほうが、後から勝手についてくることがあります。

弁理士。
エンジニア。
経営者。
発明者。

私はどれも、最初から明確に「これになろう」と思っていたわけではありません。
関心の向くままに歩いていたら、交差点ごとに名札を一枚ずつ拾ってきた。
そんな感覚に近いです。

だから、目的地をひとつに決めきる必要はないのだと思います。
むしろ手放してはいけないのは、関心、あるいは好奇心という羅針盤のほうです。

そして、弁理士という仕事は、この生き方にとても向いています。

あらゆる産業の、いちばん新しい発明に出会える仕事です。
まだ世の中に出ていないアイデアに、かなり早い段階で触れられる仕事です。

歩き続けることが許される。
運がよければ、自分自身が当事者になることもある。

セコンドのつもりでいたのに、いつのまにかリングに上がってしまう。
そんなことが起きる仕事は、そう多くありません。

弁理士の日に寄せて

専門分野の垣根が溶けていく時代です。

それを不安に思う気持ちもあります。
けれど、できれば私は、この変化を面白がりながら歩いていきたいと思っています。

リングの外が、いつまでも安全地帯であるとは限りません。
だったら、いっそ上がってみてもいい。

自分の線を伸ばしていけば、どこかで誰かの線と交わります。
その交差点で、また新しい発明が生まれるかもしれません。

弁理士の日に。
これからも、ご一緒に線を伸ばしていきましょう。


この記事は、内田浩輔弁理士(ドクガク)が主催される「弁理士の日記念ブログ企画2026」(テーマ:知財業界と専門分野)への参加記事です。
2010年から毎年続く、知財に関わる人たちが7月1日に同じテーマで一斉に筆をとる恒例のお祭りで、今年も多くの仲間が参加しています。

企画の詳細・参加ブログ一覧はこちらからどうぞ。
https://benrishikoza.com/blog/benrishinohi2026/

いいなと思ったら応援しよう!