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あなたの代弁者は、あなたの損失を正しく計算しているか

日本薬剤師会は物価高騰を知っている。賃金格差も知っている。令和8年度改定に際しては「現下の賃上げ・物価高の影響等により薬局の経営状況が大変厳しい中、他業種と同水準の賃上げを実現すべく取り組んでいる」と明示的にコメントした。中医協に席を置く日薬委員も、改定議論の場で「薬局の経営維持と着実な賃上げを可能とするための評価の充実」を要請し続けている。

では、彼らの主張は十分に根拠づけられているか。

問うべきはここだ。認識があることと、その認識を正確な数値で交渉の俎上に乗せることは、別の話である。


一、「名目+2.5%」という目標の見落とし

令和6年度診療報酬改定において、政府は薬局の勤務薬剤師に対して「令和6年度にベア+2.5%、令和7年度にベア+2.0%」という賃上げ目標を掲げた。これを受けて日本薬剤師会は「着実な賃上げが必要」と評価し、一定の前進として受け止めた。

しかし、ここに一本の数字を重ねてみる。

同期間の消費者物価指数の上昇率だ。総務省の統計によれば、2023年の総合CPI上昇率は前年比+3.2%、2024年は+2.7%だった。つまり制度が目標として掲げたベア+2.5%(令和6年度)は、その年の物価上昇率+3.2%を0.7ポイント下回る。令和7年度目標のベア+2.0%も、2024年のCPI+2.7%に0.7ポイント届かない。

目標を完全に達成したとしても、実質賃金はマイナスになる設計だった。

この事実は、改定交渉の議論の場で「名目賃上げ率と実質賃金の乖離」として明示的に指摘されたか。中医協の議事録や日薬の公表資料を参照する限り、賃上げ要求の根拠として提示されたのは「他業種との名目賃上げ率の格差」や「経営状況の悪化」であり、実質賃金という軸で要求水準を組み立てた形跡は見当たらない。

これは「言わなかった」のか「気づかなかった」のか、外部からは判断できない。しかし結果として、CPI対比でマイナスになる目標が「一定の前進」として受け入れられた。


二、5年間の累積損失という視点

より長い時間軸で見ると、問題の輪郭がさらに明確になる。

厚生労働省「賃金構造基本統計調査」と総務省「消費者物価指数」を突き合わせると、2020年から2024年にかけての5年間で、薬剤師の名目平均年収は約565万円から599.3万円へ+6.1%増加した(2020年値は複数二次資料による参考値)。一方で同期間の総合CPI上昇は+8.5%だった。実質換算すると、2024年の599.3万円は2020年基準で約552万円相当となり、購買力ベースで約13万円・2.2%の目減りだ。

さらに見落とせないのが、他産業との比較だ。厚生労働省「毎月勤労統計調査」の名目賃金指数は2020年比で2024年に+9.2%まで伸びている。薬剤師の名目増加率+6.1%は、これを3.1ポイント下回る。つまり薬剤師は「実質でも目減り、他産業との格差でも後退」という二重の劣後を5年間にわたって受け入れてきた。

この5年間の累積損失を、改定交渉の要求根拠として提示した場面があったか。四病協や医師会が「経営悪化の累積」や「物価スライド」の概念を持ち込んで診療報酬の大幅引き上げを要求したのに対し、薬局・薬剤師側の要求は主に「経営状況の悪化」と「現行の名目賃上げ率では不十分」という枠内にとどまった。

累積で2%超の実質目減りを「回復する」という発想が、要求の設計に組み込まれていなかった。


三、改定率に見える序列

もう一つ、数字が示す構造がある。

令和8年度改定の緊急対応分(令和6年度改定以降の経営環境悪化への対応)の配分は、施設類型ごとに次のとおり決まった。病院+0.40%、医科診療所+0.02%、歯科診療所+0.01%、そして保険薬局+0.01%——全類型の中で最低水準だ。

この配分格差は、交渉力の差を反映しているという見方もできる。しかし別の読み方もできる。保険薬局側が提出した「経営悪化の論拠」が、病院団体の主張と比べて説得力の面で劣っていた可能性だ。病院団体は「2024年度改定後に医業赤字病院が69%、経常赤字病院が61.2%に増加」という具体的な経営実態調査を武器に交渉した。対して保険薬局側の論拠は、日本保険薬局協会の会員調査に依拠する部分が大きく、「実質賃金の累積目減り」という全産業共通の経済指標を援用した形になっていない。

数字の土俵が違えば、交渉の結果も変わる。


四、「正しく計算する」とはどういうことか

ここで誤解を避けるために整理しておく。

本稿が問うているのは、日本薬剤師会や薬剤師議員の善意や努力の不足ではない。構造的な公定価格制度の中で、限られた交渉の場において、どういう「数字の言語」で要求を組み立てているかという、方法論の問題だ。

実質賃金という軸を持ち込むことは難しくない。総務省のCPIと厚労省の賃金統計は誰でもアクセスできる一次資料だ。「5年間でCPIが8.5%上昇した。薬剤師の名目年収増加は6.1%にとどまり、実質では2.2%目減りした。これを回復するには、名目でさらにX%の賃上げが必要だ」——この論法を改定要求の根拠に加えることは、技術的には単純な計算だ。

問題は、その計算が「交渉の言語」として使われてこなかったことにある。

名目賃上げ率の比較を要求根拠にする限り、目標が物価に負けていても「前進」として処理できてしまう。実質賃金という軸を持ち込まない限り、CPI対比でマイナスの目標が「着実な賃上げ」として合意される構造が続く。


おわりに——「代弁」の精度を問う

薬剤師個人が転職市場で待遇改善を交渉するとき、「物価が上がったから実質的に目減りした、その分を上乗せしてほしい」と言える。それは自然な主張だ。

しかし職能団体が改定交渉の場に持ち込む「要求の言語」は、より精密でなければ交渉相手には刺さらない。財務省は「名目賃上げ率を達成した」と言える設計で合意を取れる。支払側(健保連)は「公費の持続可能性」という軸で対抗できる。その場で「実質賃金の累積目減り」という全産業共通の指標を持ち込まない限り、議論は名目の数字の攻防に終始する。

あなたの代弁者は、あなたが過去5年間で失った購買力を、正確な数字で交渉の場に乗せているか。

この問いへの答えを、現場の薬剤師自身が持っておくことは、決して無意味ではない。制度に依存した賃金構造の中で、自分の処遇が「どういう計算で決まっているか」を知ることは、少なくとも当事者として状況を正確に理解するための最低限の前提だ。


【主要データと出典確認状況】

  • CPI年次推移(2023年+3.2%、2024年+2.7%):総務省統計局「2020年基準 消費者物価指数 全国 年平均」★一次確認済み

  • 薬剤師名目年収推移(2020年約565万円→2024年599.3万円):令和2・6年賃金構造基本統計調査(2020年値は二次資料参照値、e-Statで一次確認推奨)

  • CPI 5年累積+8.5%、実質換算▲2.2%:上記より算出

  • 毎月勤労統計 名目賃金指数2020→2024 +9.2%:厚生労働省「毎月勤労統計調査 年平均結果の推移」★一次確認済み

  • 令和6年度 賃上げ目標ベア+2.5%(令和6年度)・+2.0%(令和7年度):令和6年度診療報酬改定概要【調剤】(厚生労働省)★一次確認済み

  • 医療業界(病院)2024年春闘賃上げ率2.41%、他業種5.10%:四病協「2025年度 医療機関における賃金引き上げの状況に関する緊急調査(速報)」

  • 令和8年度 緊急対応分配分(病院+0.40%、保険薬局+0.01%):令和8年度診療報酬改定概要(厚生労働省)★一次確認済み

  • 日薬コメント・中医協における日薬委員発言:日本薬剤師会公表資料(2025年12月)・医療情報メディア(GemMed等)

制度情報は令和8年度改定時点のものです。改定内容は厚生労働省告示・通知で必ずご確認ください。

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