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【短編小説】奥行き十三歩には、|「第二回すべて失われる者たち文芸賞」応募作

 軽量鉄骨、二階建てアパートの側面はわたしの足で十三歩。
 この十三歩のなかで、人は泣いたり笑ったり喧嘩したりセックスしたりする。広い世界の奥行きたったの十三歩。そこに人の営みが詰まっていると思うと不思議な気持ちになる。

 

 五月の風が通り抜ける静かな午後、開け放した窓から「こそっ」という小さな物音が聞こえた。外に何かいる。音は壁の向こう側、隣家との境目からだ。
 わたしたち夫婦がこの小さなアパートに引っ越してきたのは半年前のことだった。付き合って十年。彼がようやく重い腰をあげたとき、わたしは三十を過ぎていた。
 アパートは南向きで東側の道路に入り口があり、一階の一番奥、104号室がわたしたちの新居だった。

 アパートの西側は一軒家に接している。
 わたしは玄関を出て隣との境を覗きこんだ。アパートの壁と隣家の塀は二メートルほど離れていて、むき出しの地面から柔らかい土の匂いがした。
 地面の一部が盛りあがっている。足音を忍ばせて近づくと褐色の小動物がちょこんと顔を出して瞬時に引っ込んだ。たぶんドブネズミだ。音の出どころはこいつだろう。

 「何してるの?」
 突然子どもの声がした。

 目の前に、髪の毛がくるくるした小さな男の子が立っていた。三歳くらいだろうか。食べ終わったアイスの棒をくわえている。
 隣の一軒家から子どもの泣き声やどすんどすん走り回る音がしていたのでそこの子だろう。隣家の庭とアパート南側の空き地はつながっていて勝手に入り込んだらしい。

 「いま、ネズミがいたの」
 わたしが答えると男の子は目を輝かせた。そして穴の前にしゃがみ込むといきなりアイスの棒を穴に突き刺した。
 「え」
 男の子は小さな手で何度も何度も棒を振り下ろす。
 「ま、待って待って。ネズミに刺さっちゃう」
 男の子は振り返ると
 「ネズミいない。ちんじゃった」と言い、今度は穴を埋めて盛り土にしてそこに棒をまっすぐに突き刺した。
 わたしは自分の耳を疑った。この子はいま「死んだ」と言ったのか?
 得意げに立ち上がった男の子の、ふっくらした頬に落ちる長いまつ毛の影が恐ろしく見えた。

 「テルくーん!テルアキー!」
 隣の家からヒステリックな女の声がした。男の子は「ぼく帰る」と言って駆け出した。
 わたしは急にみぞおちのあたりに重しが入ったような嫌な予感におそわれた。


 ここ数ヶ月、わたしは毎朝婦人体温計を舌下にねじ込み、タイミングをねらっては疲れて帰宅した彼のボクサーパンツをむしり取り、性交渉を重ねてきた。助産師のおばちゃん動画で見た「射精後に素早く抜くと遠くまで届くわよ」という謎の助言にしたがい「早く抜いて」が口ぐせになっていた。

 そのかいあって先週、検査薬は初めて陽性を示した。すぐに婦人科に行ったがエコー検査では確認できず、一週間後にまた来るようにと言われていた。


 テルくんと会った次の日。トイレでパンツを下ろすとどろりとした血液がついていた。
 頭が真っ白になりクリニックに駆け込む。初期の流産だった。モシャモシャ眉毛のおじいちゃん先生は、よくあることだ、また妊娠できるよと優しく言ってくれた。

 あの子のせいだ。あの子があんな縁起の悪いことをするから。ショックと腹立たしさでどうにかなりそうだった。

 お隣との境を覗くとテルくんがいた。
 すき間の先の空き地で、三輪車に乗りハンドルに頭をうずめている。
 三回深呼吸をしてから声をかけた。

 「どうしたの?」

 テルくんは体をゆらゆらさせながら顔を上げた。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。

 「ママが……」

 隣の二階の窓から、ホニャホニャと、か弱い泣き声が聞こえてきた。
 テルくんは袖口で涙を拭うと唇をキュッと引いた。三輪車を降りてポケットから別のアイス棒を取り出し、ネズミの穴の右隣に同じように土を盛って棒を突き刺した。

 「こっちは赤ちゃんのおはか」
 ドキッとした。
 「赤ちゃん来てからママ、こわくなった」
 あ、と思った。昨日のヒステリックな声。テルくんの小鬼のような天然パーマが風に揺らいだ。

 テルくんがわたしを見上げる。涙でかたまったまつ毛が大きく動く。
 「また来るって」
 「え?」
 初めてテルくんはにっこりした。
 「ばいばい」
 そう言うと泥だらけの手を振って帰っていった。


 それから二ヶ月後。真夏の盛りに再び妊娠検査薬に陽性反応が出た。
 わたしはエアコンをつけて窓を閉め切った。壁の向こうに時々テルくんの気配を感じたが出ていくことはしなかった。

 セミの声を縫って赤ちゃんの泣き声や女の人の大声が聞こえた。わたしは終わらない吐き気にうずくまっていた。秋が深まったころテルくん家族が引っ越したと聞いた。

 テルくんが作ったアイス棒のお墓はまだあるのだろうか。アパートの壁を隔てた外側、同じ十三歩のなかであってもそれを確かめることはしない。
 いま、わたしの奥行きには命しか挿れたくない。


(1997文字)



花澤薫さん主催の「第二回すべて失われる者たち文芸賞」に応募します。
花澤さん、よろしくお願いします。

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花澤薫さんの著作のレビュー集。
わたしも読み終わったら書きます…です。


#第二回すべて失われる者たち文芸賞


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