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父のガウンは臭かった #モノカキングダム2025

アディショナルタイムとは、サッカーの試合において中断された分をあとから追加する時間のことである。
人生にもアディショナルタイムのような時間が存在するんじゃないだろうか。


実家の両親は年齢の割に元気な後期高齢者である。
とくに父は、耳の聞こえは悪いがその他は大きな不調もなく「俺は介護認定から外れるんじゃないか?」とよく冗談ぽく口にする。(とはいえ先月、要支援1から2に介護度が上がってしまった)

そんな父のために、実家の模様替えをしたある日のこと。
朝からわたしは大量の本を移動したり埃だらけの床を掃除したりと力仕事にいそしんだ。昼食後、気絶するようにソファーになだれ込む。

うとうとしているときだった。突然、


ブヮッサー!


上から布が覆いかぶさってきた。


くっさー!!!!!


強烈なにおいに包まれ、父が自身のガウンをわたしにかけてくれたのだとわかった。
そのニオイはビンテージ級の禍々まがまがしさ。まるでこの日のために押入れの中で数十年間熟成されてきたような『君は1000%』(byオメガトライブ)ならぬ「オヤジ2000%」の激臭だった。

頭からガウンをかぶったわたしがクラクラしていると、次の瞬間、父が予想外の行動に出た。

ガウンの裾(わたしの膝の脇)をポンポンとするではないか。まるで母親が幼な子の布団を優しくポンポンするように。さらにわたしの頭までポンポンしてどこかに行ってしまった。

あぜんとした。
声を出さずに笑ってしまった。


母いわく、父はもともと家事も育児も何もしない人で「子どもを見てて」と頼まれれば本当にただ見ているだけ、「お風呂に入れて」と言われればキューピー人形のような乳児をドボンと湯船につけておしまい、という具合だったらしい。

そんな父でもインスタントラーメンを作ってくれたり、わたしが3歳くらいの頃はお父さん遊園地※をしてくれたり、不器用ながらも愛情を見せてくれてはいた。(※父が仰向けになって真上に足を伸ばし、その足裏にわたしが腹這いに乗っかってスリルを味わう遊び)


ただし、父の言動に救われたとか、あの時の父の言葉があるから今の自分がある、といったいい感じのエピソードが……一つも思いあたらない。

わたしがピアノを習っていた頃、練習している曲と同じ曲がテレビやラジオから流れると、父は「あんたのいい加減なピアノとはえらい違いだな」と皮肉を言い、勉強ができる子と比べて「しっかりやらなきゃダメじゃないか」と薄っぺらい言葉を並べたてた。

自分が親になってから読んだ本に、自分はできない子だ、などと子どもに無力感や恥ずかしい思いをさせることで子どもを支配する親がいるとあった。そういう親は子どもの自立心や自尊心を摘み取ってしまう。
そこまで酷くはなくても父には多少そういう面があった(実は母も)。


父が体力・気力の限界を感じ、趣味の自転車を処分し読書会もやめてしまってから、姉とわたしへの態度が変わった。雨戸が壊れた、エアコンを交換したい、あれこれ業者を呼んだり支払いをしたりするにも娘たちの助けが必要になった。その都度父は「ありがとう」と言って帰りはバス停まで見送ってくれる。

そういえば姉とわたしが十代〜二十代の頃、父は円形脱毛症になり、その後母が舌癌になった。家族全員が孤独でストレスを抱えていた。なのに、お互いをいたわり励まし合うことのできない家族だった。

ガウンはあの頃から熟成されていたのだろうか。
だとしたら、あの激臭はバラバラ家族の負の遺産であり、父のぎこちないポンポンは愛情の上書き行為と言えるだろう。

父のアディショナルタイムは、今のところ父にとってもわたしたち姉妹にとっても恩寵に満ちたものとなっている。

(1500字)



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#モノカキングダム2025


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