想い出はモノクローム
長女が生まれたとき、涙が飛び出した。
「流れた」ではなく、本当に飛び出た。
私は男性なので出産したわけではないが、妻と深夜に病院へ行き、妻が出産をしている隣の部屋の、待合室なのか違う診察室なのかわからない部屋に通され一人待っていたところに
オギャー
という古来から噂に聞く泣き声を聞いた瞬間、涙が飛び出したのだ。
ピュッっと。
驚きと感動と妻への感謝と、あとなんだかわからないいろいろな感情が相まみえると涙は飛ぶのか、と唖然として少しウケてしまった。
深夜の薄暗い謎の待合室。午前4時41分だった。
そしてそれから2年後、
妻は双子も出産してくれて、うちは3人娘と夫婦の5人家族となり大賑わいになった。
長女とと双子の子育てはそれはもう大変だった。
布団の頭の上には、哺乳瓶と固形ミルクと電子ポットと、お湯で作ったミルクを素早く冷やすための冷水が置かれ、深夜に双子のどちらかが泣くと即座に起きてミルクを作り寝かしつける。
それが2時間おきくらいにやってくる。
妻と私で順番に対応していた。
赤子の高音の泣き声。アアアアン!アアアアン!
遺伝子に組み込まれた警報アラートのように、心に突き刺さる音。
電車で赤ちゃんが泣いている声に怒る大人がいるが、少しだけわかる。
あの声には「泣き止ませなければ!」という焦燥感を与えるシステムがあるのだと思う。
だからこそ電車や公共の場で泣いてしまった赤ちゃんをあやしている大人を応援したいと思う。大丈夫だよ!私はあなたの味方だよ!と。(が、あまり見ると、逆に不愉快に思っていると思われてしまうので難しい)
アアアアン!アアアアン!
午前3時。薄暗がりを切り裂く響く声。
どっちだ!
次女か!
素早く起きて、流れ作業のようにミルクを。
ついでにオムツも替えよう。
アアアアン!アアアアン!
ああ!三女も泣いてしまった!
ちょっとだけ待って!
ここで2歳の長女が泣きだしたら、もう崩壊する。
予断が許されないような緊張感。
常夜灯をつけたままの寝室のあの情景。
思えば一瞬だったような気がするが、現場は永遠と感じたモノクロの風景。
アアアアン!アアアアンン!!
文字にすることが難しい彼女たちの泣き声をどれほど聞いただろうか。
妻のお義母さんや私の母にも、たくさん手伝ってもらった。自分たちだけでは全然対応できなかったと思う。
双子が5歳くらいになるまでは、誰も泣かないという日はなかった。
1日誰も泣かない日が来たら祝杯をあげようと妻とよく話していた。
はやく泣き声から解放されたい。そうずっと思っていた。
それから数年。
現在になる。
3人娘は小学6年生と小学4年生に。
「お父さんまたあれやって」
と娘たちに遊びをせがまれた。
1年位前にやった、3人がランダムに布団の中に寝転がり足だけを出し、
誰の足だかわからない状態で、私が足つぼマッサージやくすぐりをした反応で誰の足だかを当てるゲームだ。
布団の下から6本の足が出てくる。
「・・・・・・・」
1年前は本当に誰の足だったかわからなかったが、この1年で長女はとても大きくなり明らかに長女のものだとわかる。
いや、もう動きや見た感じでだいたい誰が誰の足だかわかる。
というかみな大きい。
座布団一つで布団代わりになった赤子のころに比べたら、バカでか足になっている。
私は、わからないふりをして、それぞれの足をくすぐった。
ククククク
フフフフ
アハハハハハ
娘たちの笑い声。
あ、そういえば。
ふと思う。
あの高音の泣き声をしばらく聞いていないな。
いやしばらくどころか、もう3,4年聞いていないのでは?
そう思うと、あの頃耳をつんざいた高音がとても愛おしくなった。
泣き声どころか泣いている顔も見たい。
泣いている写真は撮らなかった。一枚だけ次女が室内玩具の滑り台の上で泣いている写真があるが、もっと撮っておけばよかった。(それは精神的になかなか難しい)
いや、そういえば音はある。
そんな日が来ると思って、iPhoneで泣き声を録音したのだった。
後日一人の時に聞いてみた。
アアアアン!アアアアン!
涙が出た。
飛び出るまではないかないけど。
あの頃のモノクロの寝室を思い出す。
しかし頭の中のその景色は確かにモノクロだけど
えも言えぬ温かさがあった。
あの張り詰めた緊張感をどういうわけか、
もうどの角度から見ても幸せとしか感じられないのだ。
時の流れはすごい。そして少し憎らしい。
あの頃大変だったことを、少しは大変だったままでいさせてくれとも思う。
すべてをいい思い出にしないでくれと。
よかったー!解放されたー!と思う余地を残したい。そうしないと私は泣いてしまうばかりだ。
あーだるかった!
そんな風に片づけたい気もするのである。
泣き声が聞こえなくなった我が家は、今のところ泣き声の代わりに誰かのブチ切れる声や、謎のオリジナルソング、突如吹き始めるリコーダー、騒音の類がひしめく。
ああ、まだ大変だ。
よかったよかった。
