短編エッセイ 冷笑系
最近、とある言葉が私の嫌いな言葉ランキングのトップ層に突如として台頭してきた。
冷笑
この言葉である。もちろん、「冷笑」はここ数年で作られた言葉ではない。昔からある立派な語彙の一つだ。きっと以前までのご時世のままであったならば、この言葉を一生使わずに生涯を終える人も少なくなかったと思う。しかし、「冷笑系」なる言葉が急速に世に知れ渡ってからというもの、こういった類の言葉を目にすることが増えたように思う。これだけなら、別に私は「冷笑」を軽蔑したりしない。むしろ、皆様の語彙に新たなものが追加されてめでたしと思う。問題は、なりふり構わず「冷笑」という言葉を乱用する人が増えた気がするということだ。実際、私の周りにもそのような人はいる。(私の人間関係のさもしさが露呈したように思えるけど、あいつらにもいいところはあるしね。うん)
冷笑という言葉が流行っているからといって、それをとりあえず使ってみようという思考回路に至るのはあまりにも短絡的で、危険な行為だ。タピオカブームの時もこのようなムーブメントがあったことを思い出す。(飲むなのか食べるなのかわからないので、この言葉を使うが)タピるということの動機が、写真をSNSに投稿することにすり替わり、タピオカの写真だけ撮り、飲み残すということが社会問題になっていた。他にも、コロナ禍の海外で流行したトイレ、ドアノブを舐めるチャレンジなど、挙げだしたらきりがない。このように、流行にのまれて、物事の本質が見えないままそれを行使するということがよくある。(それが流行りというものなのかもしれないが)
さらに悪質な問題点は、「流行り」を免罪符にして、今までは心の中に留めてあった言葉を容易に口にできるようになったということだ。
この間、高校の文化祭があった。私は一般公開の日に参加したわけだが、その文化祭の目玉イベントは体育館のダンスドリル部の発表だった。私はその日に限って財布を忘れてしまったので、ほとんどの出し物には参加できず、基本は体育館で軽音楽部などの発表を鑑賞していた。それらの発表が一通り終わると、ダンスの準備のために、一度体育館の外に出ろという指示があった。完全に手持ち無沙汰になった私は校内をゆっくり回ることにしたのだが、階段がパンパンに埋まっていた。何やら、ダンスドリル部待ちの列のようだった。こんなに並ぶのかと感心と、人多いなぁという落胆が混じった感情でゆっくり歩き始めると、同様に初めて階段の列を見た一年生男子二人組の会話が聞こえた。
「え、こんなに並んでんの?俺ダンドリ楽しみにしてたけど、人混み嫌いだから他のところ周ろうかな」
「うおw人混み嫌いな俺カッケェですかw」
「なんでそうなるんだよ笑」
私は混乱した。ただ人混みが苦手というだけでカッコつけに分類され、冷笑されてしまうのかと虚しく思った。
しかし、「うおw」という言葉をつけることで「今流行りの、冷笑系をやってみました」という感じを出しているだけで、実際にそれは思っていることなのではないかと思う。今までなら、相手の気持ちを加味して口に出すことはなかったであろう言葉が、実際の冷笑が、「冷笑系の真似」で簡単に相手に伝わるようになってしまったことは、どうも人間関係をよくする上でノイズになる気がしてならない。これが、流行りを言い訳にして好き勝手できてしまうということを目撃したっていう話。
漢字の通り、流行というのは流れるように進んでしまう。ここで私たちに求められるのは、その流れに身を任せるのではなく、その川底を一歩ずつ噛み締め、混濁した汚水になる前の、クリーンな水流のところで、歩みを止めることなのではないかと、私は思う。
