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8 月 2 日 (日) 三位一体後第9主日

「ローズンゲン、または『日々の聖句』は、その日のための聖書の一句が記されている、毎年ドイツで発行される小冊子です。毎日与えられる、旧約・新約聖書の一節ずつから得た黙想を、隠退牧師が綴っています」


これらの国民は卜占する者や占い師の言うことを聞いているが、あなたの神、主は、あなたがそうすることをお許しにならない。(申命記18:14)
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だが、今や神を知ったのに、いや、神に知られたのに、どうして・・・あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。
(ガラテヤの信徒への手紙4:9)


「卜占」という珍しい言葉が登場しました。《ぼくせん》と読みます。大抵の辞書が《占い》と意味を書いています。そうすると《卜占する者》と《占い師》がどう違うのかは私には分からないことです。

「これらの国民」というのはパレスティナ地方の先住民でしょう。今から、その中に入って居場所をつくらなければなりません。そのときに《占い》を禁じられるのです。理由は簡単です。世の中は《占い》によって動いているのではないからです。《占い》が人或いは国の《幸・不幸》を決めるのではありません。世界をお造りになり、支配しておられるのは神御自身です。聖書は二元論ではなく、一元論なのです。こういうと必ず《今の私が不幸なのも神の御わざ》と反論されます。或いは地震などの災害も神の御わざかと問われます。しかし、事はそれほど簡単ではありません。神の御支配の仕方は私たちに隠されているからです。パウロが「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか(ローマ書11:33)」といっている通りです。私たちの個性や自然の災害などを認めつつ、もっと大きなところでの御支配なのです。

占いを禁じる旧約聖書を支える新約聖書の言葉として採られているのがガラテヤの信徒への手紙4:9です。その通りだと思います。少しの感想です。パウロは《神を知ったのに》を直ちに言い換えて《神に知られたのに》と言います。私たちはなお信仰を自分の所有と考えているようなところがあります。そこから《神を知った》という言い方が出て来るのでしょう。《私は信仰をもった》と言い、当たり前のように《私は洗礼受けた》と言ってしまいます。しかし私たちは《神に知られた》のです。その意味でいうと《洗礼の恵みにあずからせていただいた》のです。私たちが信仰をもったのではなく、神が私たちに働きかけて下さったので、私たちは神の愛を知り、恵みを知ることが出来たのです。その神の恵みをいただいて《ありがとう》と感謝し、素直に《神を喜ぶ》ところに私たちの信仰があります(ローマ書5:11・口語訳)。この箇所は「私たちは神を誇りとしています」と訳し替えられてしまいました。

私たちは神に知られたのだから無力で貧弱な霊力に戻らず、神の御業に信頼しましょう。


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