ふあんのみなもと
不安。誰しもが常にどこかに抱えているはず。
小脇だったり背負っていたり、一旦玄関に置いてみたが妙に気になってしまったり。
どこかに忘れておけるならそれでもいいのだろうけど、一回でも見つけてしまった日には大変だ。知らぬ間に忘れているのではないかと、あらぬ不安がさらに次の不安を呼ぶ。
そうこうしているうち鼠算式に増幅した不安は、スイミーが如く後悔に姿を変えて宿主の心をじわじわと消耗させる。
なんともありふれたロジックだ。やはり個は群れを成す事で強くなる。
不安のひとつひとつでは大した効果はないと分かっていも人間はズボラで面倒くさがりだし、新鮮な好奇心にいつだってメロメロだ。
意思の弱さは興味の強さ。心の揺らぎは期待の現れ。歩く姿は百合の花。
そんな強弱の対比の事を魅力と呼ぶし、人の弱さの中に人間力はあるんだと思う。
だから不安との向き合い方は大切にしておかないといけない。
家庭、進学、就職、結婚、出産、老後、死後、輪廻、天生、森羅、万象。
今現在過去未来、その全てに不安は付き纏っている。体臭と一緒。
どれだけ「今」この瞬間に解決できる問題を乗り越えたとしても、未だ残る無数の不安に対処しきれない。
いつもの2倍の時間お風呂に入ったって綺麗な状態が2倍長持ちするわけでもなく、明後日にはちょっと臭いのだ。悲しいけれど、そういうものなのだ。
考える事が増えると同時に不安も増えてくる。さながら思考を栄養に次々と繁殖するウイルスだ。1匹いたら100匹いると思った方がいい。
現状どうしようもない問題について堂々巡りして頭を抱える。なんてのは言語道断。そんな事をしたら不安を養殖しているようなもの。
群集の不安を養殖させてなんやかんやするビジネスは既に世に蔓延っていて、元々優劣のなかった概念に格付けをして回っている。
そうして生まれたしこりで相撲をとったりなんかして、誰かの食い扶持がいつの時代も次々と生まれては消えていく。
江戸時代、身分の高い人間のうんちはブランドうんちとして高価で売買されていたそうですよ。そんなもんなんです。
不安の損切り、希望の押し目買い。審美眼はどこで磨いておけばよかったのか。はたまた拾い忘れてしまったのか。後悔は至る所に火種として燻っている。
どうしようも出来なくなった頃には心にポッカリと穴が空いておしまい。後悔が埋め尽くしている空白は整地が難しい。
それは分かっているのだけれど、考えることを止められないのは自分がズボラなせいなのか、はたまた不安への興味感心が全てを上回ってしまうからなのか。
強く惹かれておいて何だが、どうにも疎ましく感じてしまうもので、考えないように切り替えてしまいなさいと言われてもそう簡単に行くものではないし、不安を切り離した人生が豊かであるとも思えない。
不安は危機回避に特化したセンサーだと思う。とはいえ不安だけを拾うセンサーというわけでもない。
というより、このセンサーがビンビンであればあるほど他の感情の精度が増していくというか。
カラカラの砂漠でやっと見つけたオアシスの水と、
いつでも蛇口から溢れる出てくる水道水。
どちらがおいしく感じますか?
そりゃ焼肉でしょ。酒も持ってきてくれ。
とまあこんな風に欲は尽きないものでして、センサーは無尽蔵に働いている。脳に労働基準法は通用しない。
休んでいて欲しい時にこそ働いて、余計な思考が脳に散漫なエネルギーをばら撒いていく。
不安とは欲求だ。
安全でいたい幸福でいたい快適に過ごしたい。
もう辞めたい満たされたい縛られていたくない。etc…
感情はあらゆる欲求に対する理想系の滑走路。
まっすぐ進めないなら操縦桿を傾けるし、離陸したいならそれなりのエネルギーがいる。
ましてや着陸なんて最高難易度だろう。
莫大なエネルギーを持って飛び立った欲求を、事故なく安全に規定の位置に着かせようなんてとんでもない芸当じゃないか。
過去現在未来、満たされなかったエネルギーが化石燃料の様に心の地層奥深くに眠っている。
常日頃から脳裏によぎる『不安』というものは、人が生きていく上で欠かせないものなのだ。
自分はこう在りたいたいと強く願うとき、自分の現在地を教えてくれるし、いざとなった時には身体を動かす力になる。
ただ供給過多になると大変で、需給のバランスを整えておかないとあっという間に身動きがとれなくなる。足りなくても、足り過ぎても。
マイナスな感情の裏にあるものはいつも本当の自分だったりして、好きなもの大切にしたいもの愛したいもの、これら全てはいつも強いストレスと表裏一体なのかもしれない。
今の僕にとって不安とはそういうもの。でも10年後には全く違う考えになっているのかも。
不安で怖いけど、それも楽しみだ。
