ふたりを繋いだ車椅子とバスケットボール ~YA小説『リバウンド』~
『リバウンド』、エリック・ウォルターズ 作、小梨直 訳、深川直美 画、福音館書店、2007年11月
[書籍《SHORT》紹介]
本書をひもとくと、軽やかな筆致で描かれる物語は重いテーマも孕〔はら〕んでいるのだが、十代の少年がぶつかり合い、やがて自身の弱さをも吐露〔とろ〕し合いながら前向きに進んでいく姿に爽快な読後感を抱く。
[1]車椅子を体験する
私は以前の勤務校(女子短大)で教職課程の履修学生を対象とする「介護等体験」講座を担当し、車椅子の操作と介助を指導していたことがある。
ベッドに横たわる人を起こすところから始め、着座姿勢から車椅子へ移る介助をする。
車椅子の操作の仕方を確認した上で、ペアになって実際に大学の校舎や敷地内を使用者・介助者として車椅子で移動。段差や坂道や建物入口のスロープ、エレベーター、さらに教室やトイレを巡り、終わる頃には日が暮れて、みんな汗だくだった。
とはいえ、一人あたりわずか数十分の体験である。それに、学生たちは高齢者福祉施設に赴くことが多かったので、あくまでも車椅子を押す側として使用者に怖い思いをさせないという設定だった。
だから、車椅子使用者が自力で街中やショッピングモールや映画館に出かけるといった状況まで想定してはいなかった。本書に出会ったのは、そんな頃のことだ。
[2]主人公と車椅子の同級生(もう一人の主人公)
主人公は、教頭からホスト(転校生の案内役)を命じられたショーンと、交通事故により車椅子生活を余儀なくされた転校生デーヴィッド。
中学二年生の二人の共通項はバスケットボールだった。というのも、ショーンは現役のバスケ部員、デーヴィッドは小学校時代から事故に遭う昨年まで花形選手だったという経歴を持つ。
ショーンはデーヴィッドに付き合い、一日の車椅子体験をする。その日に彼が感じた違和感は、既に物語前半にも伏線としてちりばめられていた。
例えば、車椅子の者が喧嘩を仕掛けるはずがないという周囲の先入観、教室移動で授業の開始時刻に遅れても教師に許されたこと、「なにか……ちからに……なりましょうか……だいじょうぶ?」とデーヴィッドに対し、誰もが何とも間延〔まの〕びした声かけをしていたこと、など。
さて、一日の車椅子体験を経て、夕食に招かれたショーンが、デーヴィッドの両親との対話の中で発した言葉。
「よくわかったのは、車いすに乗った感じより、まわりの人の態度かな」
「ひどい扱いは受けませんでした」
「車いすだとわかると、どなるのをやめて、あとはこれでもかっていうくらい、親切にいろいろと面倒見てくれた」
それを受け、デーヴィッドは「人をばかにしやがる!」「同情だよ」「お気の毒にって態度」だと言い放つ。
周囲のいたわりや、大切にしたいという想いに偽りはないはずだ。ただ、自身の現実を受容しえずにいた彼は、人々の態度の背後に、同情(いわば対等ではなく相手を弱者と見なす、つまるところ下に見る感情)を看取〔かんしゅ〕していたのだろう。
[3]共に生きる環境の整備
これまた私事ながら、別の旧勤務校(社会人予備校)の同窓会の帰途、私鉄駅の改札で白杖を持った人に教え子の一人が声をかけ、停車中の車両まで寄り添った。
仕事柄(別の私鉄勤務)だと笑う彼の振る舞いは相手ともども呼吸をするような自然さだった。私も電車での乗降を手伝うときは「腕、持ちますよーっ」と声をかけるものの、彼ほど自然に体が動いている自信はない。
心の片隅に「助けてやっている」という意識を抱くことも、「どうしたらよいかわからない」と構えたり避けたりしてしまうことも、私たちの心にある障壁〔バリア〕にほかなるまい。
だが、環境のバリアフリーが十分に整っていないことも相俟〔あいま〕って、呼吸をするごとく自然に、というのは両者の公的生活空間の共有が日常化しないと、なかなか難しい。
[4]車椅子バスケットボール
さて、物語のほうでは、結末部で、ショーンは学校のバスケチームのメンバーに選抜され、デーヴィッドは車椅子バスケの世界へ飛び込んでいく。
『日本車いすバスケットボール連盟』のウェブサイトに競技規則などが紹介され、動画サイトに試合の映像が公開されているから、作品世界におけるデーヴィッドの姿を具体的にイメージすることができるだろう。
無論、それは車椅子使用者の《日常》ではなく《競技》する姿であるわけだが、この小説の物語世界にとどまらず、彼らを知るための出会いの一つにはなるはずである。
