見出し画像

自分史〜前編〜何才からでも底辺から這い上がってこれたのは、自分らしく生きたいから。

はじめまして。ケイと申します。タイトルの、「何才からでも這い上がってきたその原動力」が、「自分らしく在りたい」、「自分らしく生きたい」、「成長したい」という強い想いからだったということに気づき、更に自分らしく幸せに生きるために行動をしようと思い、noteを始めました。

自己紹介も兼ねて、その這い上がった原動力の話や、何才からでもやればできるんだという体現した物語を書いていこうと思います。


「チョコミント探偵団」に描いていた理想の世界。暗黒の小・中学校時代

小学生の時の夢は漫画家でした。小学生ってだいたいみんな漫画描く時ありますよね。私もそれの一部だと思っていました。でも自由帳13冊続いたんです。

その名も「チョコミント探偵団」。

画像1

田舎に初めてサーティーワンアイスクリーム屋さんができて、小4の時に初めて食べたチョコミントアイスがなんと高級に感じたことか。あ、主人公の名前にしちゃおーっと。単純です。チョコミントという主人公が、探偵団の仲間たちと様々な問題を解決していくストーリーです。

北関東の田舎で生まれ、女は女らしく、男は男らしく生きなさい、長女なんだからしっかりしなさいと育てられました。父親は出張も多く仕事が忙しくいつもピリピリ。自分の悩みは親になかなか相談できませんでした。

でも一つ加えておくと、親なりに子供に愛情を与えてくれたと感じています。大金持ちとは言えないですが、一軒家で習い事もたくさん習えて、ピアノもあって、犬も飼えて、ファミレスより回らない寿司屋に連れていってくれたり、節約家の親ですがお金に困るという事はありませんでした。

少女漫画は苦手で、男友達と野球したり基地を作ったり爆竹したり。家でも絵を描いたりブロック遊びが好きでした。ピアノの発表会でピンクのドレスを着るのは嫌いでしたが、ピアノを弾いたり曲を作る事は好きで、父親の趣味のレコードをよく聴いて音楽も好きでした。

主人公のチョコミントは男でも女でもなく描かれていました。弟子の名前はでーしー。そのまま。骨人間なんだけど情熱的でいつもチョコミントを慕って頑張るタイプ。(よくある流れで)敵だったギャングは味方になります。ギャングの首を私書き忘れちゃって・・・途中から描くのもおかしいから、13冊ずっと首なし。

でも誰もチョコミントを男なんですか?女なんですか?とも聞かないし、でーしーって骨人間なんだけどなんで?とも聞かないし、ギャングさん首ないけどおかしくないですか?とも聞かない。

チョコミント探偵団の人たちは、あるがまま、ありのままを受け入れ、尊重し、誰も問わない世界。評価も判断もしない。

私は自分の性自認や好きになる対象が多数の人と違うと感じていたから、「女性として生まれてきて女性らしく生きなさい」、「正しい女性の人生とはこうあるべき」だという社会の価値観や概念を押し付けられることが苦しかったのです。

ん?女らしい男らしいって誰が決めたの?正しい人生って?という疑問がずっとあった。私は私らしく、幸せに人生を全うしたいのに。

チョコミント探偵団が13冊も続いた理由は、もっと自分らしくありのままに生きたい、そんな世界や人々であってほしいという願いからかもしれないと最近気づいたのです。

ちなみに音楽の方が上達していって楽しくなり、漫画家の夢はそこで終わりました。そして中学校の記憶はあまり思い出したくないくらい、親や学校・周りからのプレッシャーを感じ、イジメにも遭い、人と同じでなければ嫌われるという思いから、人に好かれるために、偽りの自分を演じていった辛かった時代です。

画像2

バンド活動スタート。期待に夢を膨らませた高校・大学時代。そして中退。

高校では今でも付き合う一生の友達ができました。高1の時から仲は良かったのですが、3年の時に同じクラスになり、私のダメなところも面白いところも、ユーモアのある変わった発言もアイディアも全てを受け入れ、ケイってそういう人だよね〜ワハハと笑い、尊重し合う人たちと出会えました。私は友達を笑わせるのが好きでした。それまでが結構暗黒だったので、自分に自信がついてやりたいことに挑戦しようという気持ちになれました。友達は宝ですね。

一人暮らしをしたくコピーライターになりたいと思い、大学に推薦で入ることが出来ました。一流大学ではないけど、母親がジャンプして喜んでくれたのが印象的でした。私は自分が成し遂げた結果やプロセスを褒めてくれたり、一緒に喜んでくれるそれが嬉しかった。でももしかして、大学→結婚→出産→将来安泰な人生というイメージも親の中にあったかもしれない。

そして18歳で初一人暮らし、バイトをし、ギターとMTR(楽器や歌をレコーディングしてHDで保存できる機械)を買ってバンドを始めました。大学の音楽サークルのメンバーがゆるかったので、楽器屋にメンバー募集のチラシを貼って、外でバンドを組みました。曲も作ってみようかなと思ったら、みるみる作れてしまった。伝えたい歌詞やメロディーがアウトプットできることが嬉しかった。ベースはメンバーに借りてREC、ドラムマシーンも買って自分でREC、全てのパートを自分でRECしデモテープを作った。20曲以上できて、これが私の生きる道、音楽で食べていくと決めていました。

なぜなら、歌詞で自分の言いたい事を音楽という芸術で表現できるから。それは苦しさではなく、人を楽しませる・喜ばせるツールに変換できるから。
そこに自分の喜びと人にも楽しんでもらうことが共存するから。それくらい素敵なものと感じたから。

マジョリティの中で感じるマイノリティの気持ち。社会の価値観や概念に押し付けられ、そこに属さないといけない苦しさ。では私は一体何者なのか、どう生きたいのかを文章だけにしたら見る人もきつい。日記も見返せないくらいきつい。

音楽という芸術はそれをハッピーなものに変えられる。
歌があるから、辛い言葉もリズムに乗って心にやさしく刺さる。
誰も傷つけず、誰かに共感を得たり指針にもなる。
そう、自分がアウトプットしたことにより、「こう生きたい」・「こう在りたい」・「人生って辛い時もあるけど光はあるよね?そこに向いたいよね」みたいな自分のことがわかる。
ジャーナリングを曲にしたみたいなものでしょうか。

画像3

大学3年の9月に中退をしました。単位は取れていました。親は大反対。そうだよね、私も親だったら高いお金を払って大学に行かせて、一人暮らしの仕送りも送って、そしたら「バンドやりたいから大学辞める」って、「あと1年以内で卒業できるからお願いだから卒業して」と言われた。そりゃあね。とんでもないよね。私は自分が親に言った言葉を今でも覚えている。

「大学卒業なんて今の私には必要ない。やりたい事をやりたい。」

20歳でこれを言い放って、これが一度報われたのは30歳すぎてからです。

結局社会からは「途中で投げ出す人」と見られ、「バンド?遊んでたの?」、「せっかく大学行ったのにもったいないね〜」と、まるで私が人生の失敗をしたかのように劣等感を刺激する言葉をかける人たちもいました。

やりたいことがあって大学に入ったけどふと気づいた。
ほとんどのみんなは目標なんかない。
どこかに就職するために、のらりくらり飲み会しながら学生をしている。
その周りに合わせて作り笑いをして、過ごす時間がもったいないと感じた。
たくさんの出会いはあったけど、一生の友達ができる予感もなかった。
そんな大学卒業なんて私の人生に必要のない資格だと感じた。
わがままな私はやりたい事をやるために頑張るんだ。
だから応援してほしい。そう思っていた。

(大学に行く事を否定していません。むしろ学びたいことや出会える人も多いので行って卒業した方がいいです。行ってよかったです。あの時の私は、自分の在り方や大学での過ごし方がわからなかったのかもしれません。そしてもっとやりたい事を見つけてしまい、そこに時間を費やしたい、自分を試したいという気持ちが強かったのです。)

画像4

自分の人生は自分が責任を負う。バンドがやりたくてもうまくいかない宿命。

そこから10年、様々なことがありました。この10年が何歳からでも這い上がるんだという事を体現した10年かもしれません。

きっとどこかで、大学中退した奴は何も夢を叶えられない、人生失格、社会不適合者、幸せになれないとも思っていた。自分の選択は間違っていなかったと思いたくて必死に頑張りました。

バンドは大変です。何人かの職業も年齢も違う人が、一つの創作物を作り継続するために行動します。チームワークが大切ですが、協力しない人も言い訳する人もいます。バンドの認知度を上げるためにライブはもちろん、メンバーのリハーサルスケジュール調整とスタジオ予約、フライヤーやHP作り、人脈作り、デモテープ作りでレコーディングをしたり。だいたい曲を作る人がリーダーになり、全てを押し付けられがち。俺が全て思い通りやりたいんじゃ〜俺の言う通りにすれば売れるからついて来い〜という人も中にはいますが、稀です。

曲を作る人がバンドのイメージや方向性も担っているとはいえ、仕事をしながら一人で全てを背負うのは時間も労力もかかります。そしてこれだ!というメンバーに巡り合うこと、これも才能のうちです。とにかくバンドメンバー探しは苦労しました。何度もバンドを組んでは「方向性の違い」・「練習に来なくなる」・「好きな人ができたからバンドを辞める」など色々な人がいました。

画像5

一人暮らしでは、お金も精神的にもどんどんきつくなってきて、一度実家に帰ることになりました。公言した事を成し遂げられなかったと、戦に負けたみたいな気分で自分を責めました。親は実家に戻ってきて嬉しそうでした。音楽で成功するなんて夢の話だよ?22歳で気づいてよかったね?と言わんばかりに。でもその時に、責めてこなかった事は感謝しています。

でも私は諦めませんでした。

地元で仕事も始めて高校時代の友達と距離も近くなり、私は良い状態に回復してきてバンドをやっている人を紹介してもらいました。そのバンドは友達との恋愛関係で揉めて解散し、地元に戻って合計3つ目のバンドを組みます。そのバンドで地元のラジオやテレビに出演しました。メンバーが送ってくれたデモテープが都内のROCKショップのオムニバスCDの数曲に選ばれ、全国に私たちの曲が配布されました。このままイケる!メンバー全員そう思っていました。

そして、本当の自分を伝えないと音楽性も人との付き合いも嘘をついているように感じる。メンバー3人(男性)に悪いなと思い、勇気を出して当時女性とお付き合いしていることを話しました。最初は「お、それこそバンドで売れそうじゃん」・「珍しいからそれを売りにしよう」・「いいじゃん」みたいな反応から、性的な質問を繰り返すようになりました。最終的に「男の方がいいから試してみない?」と言われ、バンドを解散しました。

追い討ちをかけるように、親から縁を切られる。

それから東京の方に引っ越しました。東京でバンドを組み直そうと、再度メンバー募集をしてバンドを組みました。そう、私のしつこさは半端ないです。継続力なのか底力なのか、劣等感からなのか、音楽が好きなのか表現したいのか。

音楽は、自分というものを見失わないための一つの居場所だったのかもしれません。
あの時のチョコミント探偵団のように。

デビューしていた情熱的な素敵な人たちと会ってライブをしたり、またバンド解散したりいろいろ経て、これだ!というメンバー一人と出会いバンド活動を頑張っていました。

そして24歳くらい?ちょっと辛すぎて記憶がないけど多分それくらい。当時の彼女の母親には恋人として一緒に旅行に行ったりと良くしてもらっていました。うちの親にも理解してもらえたらな〜と思っていたところ、父親から話があると言われ、とある居酒屋で会いました。

セクシュアルマイノリティという本を買って、「私は犯罪者ではないんだよ、たくさん失敗もしたけど普通に生きて、普通に人に感謝して、普通に人を好きになって、普通に仕事をする人なんだよ、そんな人が世の中には一定数いるんだよ、だから病気じゃないんだよ。」とカミングアウトするつもりで、いそいそ出かけました。

アップルのCEOティム・クック氏がゲイとカミングアウトしたのも数年前、今や巷でLGBTという言葉をよく聞く時代ですが、その頃はホモ・レズ気持ち悪い。おかまは笑い者。ニューハーフはTVの世界の人というくらいの認知レベルだったかと思います。まさか学校に、まさか職場の中にいるわけない。それがマジョリティの思考だと思います。

父親は最後まで話を聞いてくれませんでした。「お前は頭がおかしいのか」・「こんな風に育てた覚えはない」・「今すぐ別れてお前が変わるなら許す」・「変わらないなら縁を切る」と言われ、読んでほしかったセクシュアルマイノリティの本を駅で投げ捨てられました。そのまま父親は電車に乗り、母親やきょうだいに電話をしたら「あなたが変わらなきゃ家族は崩壊する」・「私たちはお父さんの味方です」と言われ、私は泣き崩れました。

辛かったね、自分。
死にたくなったけどよく今日まで生きたね、頑張ったね。
今ここで自分を抱きしめようと思います。
わたし、ありがとう。

孫の顔を見せてあげられないのは申し訳ない。でも、私は私で必死に生きている。そして好きな事をやらせてくれて、たくさんのわがままを聞いてくれた親に認められようと、褒められようと、愛されようと、憎悪と共に言いようのない気持ちが続きました。そしてその内、自分を責めるようになりました。こんな自分だからダメなんだと。そこから光のないぬかるんだ道を歩いていました。

長くなったので、この自己紹介の続きは自分史後編に続きます。

いいなと思ったら応援しよう!

kei@ボイスコーチ よろしければぜひサポートをお願いします!いただいたサポートは、現在の活動をより必要な人に届ける為に活かし、使用させて頂きます。

この記事が参加している募集