「書く」を仕事にして丸4年、書き続けて分かった“書いてケアする”ということ
「書く」を仕事にして、もうすぐ丸4年を迎える。
私の仕事は、フリーランスのWebライターだ。資格もスキルもコネもなく、興味本位で始めた副業が、いつの間にか本業になり、人生で一番長く続いている仕事になった。
「どうして4年も続けられたの?」と聞かれれば、恐らく「書くことが好きだから」と答えるだろう。もう一度噛みしめておこう。私は書くことが好きなのだ。
書くという行為を通じて、これまでたくさんの自分の感情と向き合ってきた。悲しいとき、悔しいとき、嬉しいとき。はたまた、感情に名前をつけられなかったあの日も、自分自身で書き連ねた言葉たちに救われてきた。
私はいつだって書くことで自分を救い、“ケアする”ことで、どうにかここまで生き延びられた感覚がしている。
子ども時代から続く「読む」⇒「書く」習慣
私の「書く」の原点には、「読む」がある。
私は今も昔も図書館っ子で、学校の図書館では上限ギリギリまで本を借りていた。さらに、地域の図書館でも上限まで本を借り、ほぼ毎週のように返却に行っていたほどだ。
ちなみに、中・高校生では図書委員になり、高校卒業後は書店に就職した。根っからの本の虫、というやつである。
積み重なった「読む」という体験は、自然と「書く」につながっていった。学年が変わり、国語の教科書が配られたその日に最後のページまで読み切ってしまうほどの活字中毒だった私は、全教科の中で飛びぬけて国語の成績が良かった。
なかでも、夏休みの大物宿題の一つである読書感想文は、私の得意分野だった。好きな本を読んで、好きな文章が書ける。これ以上幸せなことはない。
だが、小学5年生の時の読書感想文には苦い思い出がある。担任の先生に、私の読書感想文をクラス代表としてコンクールに出したいと言われたのだ。
文章を書くのが得意だと自負していた少女時代の私は、とても嬉しく誇らしい気持ちでそれを承諾した。しかし、手渡された原稿用紙を見てゾッとした。そこには大量の赤字が入れられていたのである。
「これでは私の読書感想文ではなく、先生の読書感想文じゃないですか?」と言えるわけもなく、私はしぶしぶ原稿を持ち帰り、赤字の通り書き直した。結局それは、入選だか佳作だかの賞をとったが、もちろん全く嬉しさも手ごたえも感じられなかった。
後に、保護者面談で母が「読書感想文の件、娘はまったく喜んでいませんでした」とくぎを刺してくれたことが発覚したのだが、担任は「え?変わった子ですね」と言っていたらしく、成す術はなかった。
とはいえ、この幼少期の体験が「自分が書く文章を大切にしたい」という原点になったのかもしれないと思っている。
仕事としての「書く」への葛藤
今から4年前の23歳のとき、私は「書く」仕事を始めた。書く仕事をしたいと思っていたわけではなかったが、書くことが好きだという自覚はあった。
最初はクラウドソーシングサイトなどで、1文字0.5円の案件からスタートし、徐々に1円、2円と単価を上げた。今では記事単価での業務委託がベースになり、年間約300記事を執筆して生計を立てている。
文章を書くことが好きなので、「仕事が苦痛で仕方がない」「朝が来るのが怖い」と思うことはない。だが、「書きたいことが書けない」には常に悩まされていた気がする。
Webライターは、クライアント、もしくは読者が求める文章を書く職業だ。今こうしてつらつらと書いているような私的な感情や、マイブーム紹介のような記事は、よほど知名度や影響力がなければ基本的には書けない。
「興味はないけどそこそこ書ける」みたいな依頼を、拒まず受けていたこともある。心の底から「書きたい!!!!!」と思えて、それがお金になるなんて夢のような話は、ほぼないのである。
その事実に気が付いたのは、フリーランス3年目に差しかかったあたりだろうか。自分の書きたいこと、書けること、書いてほしいと言われること、その3つをひたすら、それこそ紙に書きだして分析していた記憶がある。

幸い、私の「書きたい」「書ける」「書いてほしいと言われる」はそれほどかけ離れていなかったけれど、もちろん全ての仕事が「書きたい」だけで書けるわけではなく、自分のなかで折り合いをつける瞬間はいくつもあった。
そんなとき、コラムニストのジェーン・スーさんの「仕事で自己実現するな」という言葉に出会った。「書きたいことを書けるライターになりたい」と思っていた私は、「やりたい仕事」=「私のやりたいこと」ではないと気が付いた。
あくまで、仕事はクライアントや読者のためにあり、自分自身の価値や人間力を、仕事だけで図ろうとするのは違う。私の“自己”は、また別の場所にあるのだ。
それが、noteで「書く」ことだったり、ZINEを作ることだったり、Xで140字ぎちぎちに呟いたりすることなのだと思う。私の「書きたい」の欲を、仕事で発散するようなことはしたくない。私は私の場所で書いていたいのだ。
「書く」が好きな私が、仕事以外で書いていること
ここまでたくさん「書く」に関する話をしてきたが、書く習慣がない人にとっては、一体どんなことを書いているのか不思議でたまらないだろう。
一個人の感覚だが、仕事上の「書く」は能力で、それ以外の「書く」は欲の発散だ。私はいつも書きたい欲に駆り立てられ、仕事と仕事の合間にも「書く」をしている。
note、手帳、日記、手紙……人に見せるものから見せないものまで、家には数冊の用途が異なるノートがあって、そこで思う存分欲を発散させている。
せっかくの機会なので、ここでは私が使い分けている6つのノートを紹介してみたい。
1.スケジュール手帳:HIGHTIDE Q TYPE
プライベートの予定は、紙の手帳メインで管理している。仕事の予定・納期はアプリで管理しているが、達成感を味わうためにその日こなしたタスクはざっくり記録するようにしている。
また、私が使っている「HIGHTIDE Q TYPE」という手帳には、月ごとにフリーページがあるため、月の振り返りや気になったエンタメ、ベストコーデなども記録している。

2.5年日記:Q&A Diary My5Years
2024年から5年日記を始めた。日ごとに質問が用意されていて、それに回答するというユニークな5年日記!ささっと書けるので万年3日坊主でもなんとか続いている。

3.持ち歩き用ノート:文房堂オリジナルノート
私は外出先でも書きたい衝動に駆られることが多いので、A6サイズのリングノートを持ち歩いている。欲望のままに書いているので中身はお見せできないが、本当に支離滅裂である。読み返すことはほぼない。

4.人生ログ・ときめきノート:無印良品 ダブルリングノート
ステッカーをべったべたに貼ったこのノートには、自分の中である程度まとまった思考や、お出かけ、購入品の記録などを書き連ねている。

ショップカードや服のタグが捨てられず、ノートに貼り付けたのが始まり。毎日書いているわけではないけれど、なんだかんだ3年くらい続いている。

5.思考整理・記録ノート:九ポ堂 空想採集帳
このノートは、本を読んで気になった言葉を噛み砕く過程に使っている。読み返すことはほぼないが、たまに見返すと「いいこと書いてるな~」と思ったりする。

6.仕事用ノート:マルマン クロッキーノート
今年から始めた新入りノート。仕事関係は基本デジタルで管理しているけれど、紙に書いて可視化してみたい!と思ったことがきっかけ。使い方はまだ試行錯誤中……。

振り返ってみて、改めて「書きすぎ!!!!」と思うが、どれも私にとって欠かせない大切なノートなのである。
「書く」ことで気付けた本当の気持ち
私はいつも、何かを書くことで救われてきた。誰に読まれなくても、誰に届かなくてもいい。ノートに向かうと、自分の身体の中から活字があふれ出してくる。一文字たりとも逃したくなくて、雑巾をしぼるようにぎゅっぎゅっと活字を絞り出すこともある。
感情を言葉にするのは難しいし、すべての感情が言葉で表現できるとは限らない。けれど、自分の感情は確かにここにあって、忘れたくない、認めてあげたい、そんな気持ちを書くことで満たしている。
学校で嫌なことがあって書き殴った日記帳、友達との交換ノート、趣味で書いていた携帯小説、好きな人へのファンレター、どんな時もその時の気持ちをありのままにつづることで、自分の中にある迷いや弱さ、逆に強みや長所が少しずつ分かってくる。
自分の思考や誰かの行動を言葉で断定してしまうのは、時にリスクがあることだけれど、書くことで自分を振り返るきっかけになったり、誰かに思いをはせる時間が生まれたりする。その時間が、私はとても好きなのだ。
これからも「書く」を続ける理由
私はこれから、何があっても「書く」を続けると思う。それは書くことが好きだからというのもあるけれど、書くことで自分を「ケアしている」感覚があるからだ。
サウナで汗をかいて“ととのう”ように、私は書くことで心がととのっている。書く前と書く後では、頭のすっきり具合や思考のクリアさが全然違う。
自分の思っていることや感じていることを上手く書けたときは嬉しくなるし、書きたいことが溜まっているのに書く時間を確保できないときはモヤモヤする。「書くしかない!!!」とがむしゃらに机に向かう日もある。
三大欲求の中に“書欲”をいれたいくらい、私の生活の中心にはいつも「書く」があるのだ。
今の私は自分をケアすることで精いっぱいだけれど、いつか私の「書く」が誰かのケアにつながったら嬉しいなと思う。
そのためにも私は己と向き合い続け、書き続けたい。
どんな時も「書く」を手放したくない、と強く思っている。
