エッセイが二十歳になった。
エッセイが二十歳になった。
二十歳。
それは、産声を上げたばかりの赤ん坊が成人になることを意味する。長い学生生活を終え、社会で役割を担いはじめる頃合いだ。
エッセイよ、きみに問いたい。
これからどう在りたいのか? と。
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エッセイが産声をあげたころ、それがナニモノであるのか、わたしはまったく分かっていなかった。
どうやらエッセイの赤ちゃんだったのかもしれない……とぼんやり思ったのはごく最近のことで、エッセイとして戸籍を登録したわけでも、エッセイに就職したわけでもなくて、ただありのままで生きていただけ。
いずれにしても、かわいい。
ヨチヨチ歩いたり、派手にはしゃいだり、斜に構えてカッコつけたり、弱さをさらけだしたり。そんな、いろんなエッセイの変化を、ずっとそばで見てきた。そうして二十年、あたりまえのように一緒に過ごした。
エッセイは、幸福の地産地消だと思う。
暮らしの中にある小さな幸福をすくいあげ、言葉として編み直すと、また別の幸福が生まれる。エッセイを書いていると、わたしはいつでも幸せなのである。
けれど、その幸福は、しばしば脆い。
書くことを大切にすればするほど、「エッセイなんて書いている場合じゃない」と現実が脅しをかけてくる。書き手にとっては命そのものでも、読み手にとっての生活必需品ではないのだから。
二十年かけて、わたしのエッセイは一円も稼いでいない。数字で価値をはかるなら、無価値と言われてもしかたない。
エッセイでは食えない。
エッセイは自己満足。
職業としてのエッセイストは幻。
そんな正論が、たしかな質感を持って、わたしが手塩にかけて育ててきたエッセイを潰そうとする。
もしかしたら、エッセイの成長を見守った二十年は、取り返しがつかない月日だったのではないか。親のすねをかじりながら青春を謳歌しているエッセイは、このままで大丈夫なのだろうか。
ときどき焦って、自由気ままなエッセイのおしりをたたいては、「もっと人の役にたちなさいよ」と叱った。だって、二十年だ。同じ時間を、社会で役立てるなにかに費やしたとしたら、エッセイはもっと「たしかなモノ」になれていたかもしれない。
「将来の夢は?」
誰かにそう聞かれたら、エッセイはなんと答えるだろう。
いつのまにか大人になって、夢を叶える手段がほとんどない現実を知ってしまったきみは、かたく口を閉ざしてたままだ。
でもね、教えてやろう、エッセイよ。
夢は、けっして「職業的な成功」とイコールではない。きみがきみで在るための場所は、きみが思っている以上にたくさんある。
たとえばわたしは、ずっと図書館司書に憧れていた。一生かけても読み尽くせない量の、世界の記録や人智やものがたりが静かに並ぶ空間で、時の番人のように鍵をにぎりしめたかった。
ところでわたしは今、しがない会社員である。
図書館司書の資格すら持っていない。
ただ、夢が叶わず不幸かと問われたらむしろ逆だ。夢を通して得たかったものは、ちゃんと手にしている。通う頻度がとくべつに増えたわけではないけれど、今では子どもたちとともに、図書館が生活に複合的になじんでいて、まちがいなく幸せだ。
職業に限定されていた点の夢が、それぞれ形をかえたり、線になったり、心地よく人生にフィットしながらわたしを照らし続けている。結局、人生はそんなふうに、地続きでつながっているのだ。
「将来の夢は?」
その問いに、きみにもぜひ「在り方」で答えてもらいたい。
点と点が思いがけない線になるおもしろさを、きみに⸺そして、きみの行く末を案じているわたしに⸺伝えたい。
きっと、「エッセイ」にとどまる必要すらない。
大切にすべきは、エッセイで得ている「世界や自分自身の解像度をあがるよろこび」や、「暮らしや日常の中にある小さな幸福をすくいあげて、静かに思考をする充足感」のほうだ。
そして、もうひとつだけ。
二十歳になって社会の入り口に立つのであれば、目線をもう少し広く持ち、誰にどう役立てるのかも考えてみてほしい。もちろん、「自己中心的世界観」を愛したままでいい。自分を歪めないままで、社会ときみが交わる心地いい場所を、うまく見つけてほしい。そんなに簡単には見つからないかもしれないけれど、二十歳というのは、その一歩を踏み出すのにちょうどいい年齢なのだから。
エッセイよ。きみは自由であれ。
まだここからだ。むしろここから、きみの人生はより濃く、より深く、より遠くに広がっていく。
どうか恐れず、腐らず、日々の豊かさを抱きしめながら、きみらしい在り方で進んでいってほしい。
二十歳、おめでとう。
