人はおにぎりのように生きられるのか
おにぎりをよく作る。わが家には子どもが3人いるので、毎日小さめのものを8個から10個ほど。週のうち3〜4回は作るので、年間で考えると、控えめに見積もっても1000個以上握っている計算になる。
それほどまでに人を惹きつける魅力はなにか。一言では語れないので本を出したほどだが、やはり最大の魅力は「許容性」だろう。おにぎりの「どんな具材も受け入れてしまう懐の深さ」には、いつも目を見張らされる。
あの許容性を、安心感を、人は持ち得るのだろうか。
持ち得る、とわたしは思う。ただしそれは、生まれつきではない。経験と愛情によるものだ。
人のこころは、ときに炊きたての米のように熱く脆い。むき出しのままでは他者に触れられず、触れれば火傷を負わせてしまうことすらある。その熱さを知っていれば、もう手を伸ばすのが怖くなるだろう。
それでもそっと手を差し伸べ、おにぎりであろうとする人がいる。どんな具材も受け止め、やわらかく包み込むようなその温かさは、どこから生まれるのか──?
わたしは、「つらさを乗り越えた経験」からきているのではないかと思う。
苦さを噛んだ人ほど、誰かの涙に寄りそえる。拒絶や孤独を知っているからこそ、理解と共感の手を差し伸べられる。拒まずに受け入れられるのは、理解できる経験としての土台があるからだ。
そして、ただつらいことを乗り越えただけでなく、そっと差し出してくれる手の存在を知っている人のように感じる。対象は、人かもしれない。文章や言葉がけかもしれない。その手を信頼し、前を向いている人だからこそ、ご自身も「おにぎりのようでありたい」と願うのではないか。
痛みを知りつつも、その痛みを肯定的に捉え直す力を持った人は、強い。傷ついた経験を「弱さの証」としてではなく、「人を包み込む力」に転じることができた人は、強くてやさしい。そのまなざしに、人は救われる。
おにぎりは、私にとって遠足のときも、辛いときも、忙しいときも、いつでもぱくっと1口食べられる。そしてほっとする。そんな存在。
飾らずに自然体で、まわりをほっとさせて、そっと寄り添ってくれる。鮭や梅干しが定番だけれど、どんな具でも包み込めるそんなあたたかさ。それが、おにぎり。
しーなさんは、視線がやさしい。「おにぎりのようにありたい」と願う心は、人生を肯定してきた証そのものなのだと思わずにはいられない。
しーなさんに対して、自然体で、ほっとできるよう寄りそってくれた存在についても、ぼんやりと思いを馳せたくなる。ご自身が受けたたくさんの愛を返そうとするしーなさんの姿に、すでにどれだけの人が心をほぐされていることだろう。勝手ながら、その手に感謝を述べたい。
わたしもまた、毎日せっせとおにぎりを握りながら、その許容性の一粒でも身につけられたらと願うばかりである。
音羽しーなさんの『わたしは、おにぎりになりたい』の感想文です。
マスクドnoteの個人賞の副賞として書かせていただきました。
やさしい雰囲気で癒されるしーなさん。すでに夢を体現されている気がします……! お声を拝聴したこともある(こっそりスタエフ聴きました)のですが、めちゃくちゃ心地いいの……憧れる。
しーなさん、ありがとうございました。
おにぎり愛をたっぷり語った著作もドウゾ!
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