大嫌いな君のために、今日は野菜を洗わない。
二年ほど、料理の仕事をしていたことがある。
恵比寿の小さな古民家で、知っている人でなければ決してたどりつけないような、不思議な路地裏にある料理屋だった。
料理の経験もスキルもほぼなかった私に、料理長はたくさんの手ほどきとアドバイスをしてくれた。
「そんなにギュウギュウ絞ったら、ほうれん草の繊維が傷ついちゃうよ。口当たりが悪くならないように、水はしっかり切るけど、優しくね。」
「クレソンの茎は、 葉の部分や他の食材と食べたときに主張しすぎないように、縦に割ってなじむようにしてみて。」
「その捨てようとしてるねぎ先の部分、ごま油とにんにくでじっくり炒めてごらん。まかないのラーメンに入れると、最高だよ。」
すべてのロジックが、食材と食べる人を想って組み立てられている。
指先に不思議な力が宿っているのではないかと思うくらい、彼女の手にかかった食材たちは、誰も彼ものびやかで心地よさそうだった。
作り手と食材の確かな信頼関係は、食べ手にも伝わる。食材を愛するとは、食材に愛されるとは、こういうことなのだろう。
料理って、すごい。めちゃくちゃ、愛情じゃん——
彼女の在り方に私は心底感動し、惚れこんだ。
週6日勤務、昼の13時から深夜まで。
残業時間は恐ろしいことになっていたけれど、料理長の横で、食材を慈しみ大切に扱う姿勢に触れ続けた私は、そのエッセンスを多少なりとも身につけたように思う。
ところで、夫とまだ戸籍上は他人だった頃、初めてのけんかをした。一緒に住むようになって、数ヶ月経った頃だろうか。原因は覚えていない。
けんかと呼べるかもわからない。私がただ一方的に、ムシャクシャと腹を立てた。
対話を求めようとも、のれんに腕押し。彼には「他者と対話をし、程よいところに着地させる」というコミュニケーション文化が皆無だった。
どうしようもなく感情を昂らせながら、キッチンに立つ。
冷蔵庫から出したばかりの野菜を目の前にして、私はどうにかしてそのモヤモヤを消し去ろうとしていた。
あぁ、雑に料理をしたい。
この野菜をぐっちゃぐちゃにして、適当にフライパンに突っ込みたい。「おなか空いてるなら食べれば?」と捨て台詞を吐いて、フライパンのまま食卓に出したい。
ドンっ! と強くテーブルに叩きつけたら、フライパンから食材が落ちるだろうか。落ちたものまで、残さず食べるがいい。当然の報いである。
しかしそれはできなかった。
初めてのけんかだからか、感情を怒りに振り切れない。ムシャクシャしているけれど、彼のことがとても好きなことには変わりないのだ。
料理長との濃密な二年を経た私は、食材と食べ手をないがしろにする料理に抵抗を覚えるようになっていた。
さらに、料理屋のあと野菜を扱う仕事に就き、私の食材に対する愛情とリスペクトはより強固なものになっていたのである。
雑の矛先を、どこにも向けられない。この子たちが悲しむようなことを、こちらの都合でしてしまうことは、とてもできない。
どうしよう……。
……野菜を洗わないで、出してやろうか。
ふと頭に浮かんだその考えに、最初は自分自身が驚いた。
野菜を洗わないで出す?
泥がついてるかもしれない、あらゆるバリアで守られている、この野菜たちを?
人前では服を着る。そのくらいのレベル感で、野菜は洗ってしかるべき存在と思っていた。当たり前すぎて、料理の工程に含まないほどに、前提条件だった。
その野菜を、洗わない。そんなことが、できるのだろうか……。
しかし同時に、彼への報復としては非常に適当であるようにも思えた。
なにより、調理の工程で食材を痛めつける行為には値しないように思えて、食材に対しては罪悪感を強く抱かずに済む。
それに、一度くらい野菜を洗わないで食べたから、どうだというのだ。考え方によっては、なんの問題もないレベルの話だ。
そう、誰も傷つかない。誰も傷つけずに「してやったり」を味わえる。妙案ではないか。
再び目の前の野菜に視線を戻す。
みんな、今日は故郷の環境そのままに、思いっきり行っちゃってくれよ、彼の胃の中まで。
大根を切る。皮は剥かない。
豚バラ大根にする予定だったので、程よい厚みにそろえていく。
仕上げに散らす柚子の皮も、洗わないで千切りにする。
お味噌汁に入れる小松菜を取り出す。根元を見ると、土がついている。
ほんの少し心が揺れるのを感じながら、親指でスッと触れる程度土をはらい、ざくざく切る。
行平鍋の中で湯気を立てている出汁に、土をまとったワイルドな小松菜を放る。
ごま油と生姜で炒めた豚バラと大根に、出汁と調味料を入れる。
あぁ、まわる、まわる。大根のすべてが。本来、フライパンに飛び込む頃には消えているべき過去の残骸が、共犯者たちにしみていく。
くたっと色気が出はじめた小松菜には、卵を落とす。
ただでさえ逃げようのないスープ状のそれに、さらに追い打ちをかけるように、卵で蓋をする。
味噌は、驚いているだろうか。いつもと違う行平鍋の様子に。
料理の舞台に上がってくる子たちは、みなこざっぱりと自身を整えてから本番に臨むのに、今日の小松菜はそうではない。顔も洗わずすっぴんのまま、髪や衣服を乱したまま、ここにいる。無防備で、剥き出しで、解放的——
「野菜を洗わない」
たったそれだけのことだったのに、料理をしている間、心臓が嫌な音を立てていた。落ち着かなかった。
私にすべてをまかせ、身を委ねてくる、無垢で愛らしい野菜たち。彼らが発するわずかな戸惑いを受けて、体のどこかがガサっと粗く乾くような気がした。
三方よしだったはずのムシャクシャ解消計画は、しかし小さく、私を傷つけた。私と野菜と料理たちの信頼関係に、ほんの少しだけ影を落とした。
その影は、丸めた紙のように折り目をつけ、しばらく私の中に横たわっていた。
器に盛られた料理は、何事もなかったかのようなすまし顔で、彼に食べられていく。
大嫌いで大好きな彼が、私の共犯者たちを咀嚼し、胃に流し込んでいく。
彼は、私の料理を絶対に残さない。
きれいに平らげられ、空になっていく器を、私はただぼんやり見つめていた。
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彼と戸籍上他人ではなくなってから、もう十年ほどたつ。
相変わらずけんかはほぼしていない。ムシャクシャすることは多くあるけれど、たいていのことは、寝れば忘れる。
対話をしない彼と、寝れば忘れる私。それで、うまくいっている。
夫婦の形は、夫婦の数だけあるのだなぁと、しみじみ実感する。
今日は久しぶりに、ほうれん草でおひたしを作った。
ざぶざぶ根元を洗い、土を落として、葉をゆがく。ざるにあげ、根元を合わせて、ギュッと絞る。強く優しく、何度かにわけて、丁寧に。
洗いものを溜め込んでいたので、仕方なくほうれん草が映えない翡翠色の器に盛り付ける。
「おえー、緑だ」と言って箸で避ける子どもたちの分は、控えめに。そう、これは彼と私のための、ほうれん草のおひたしだ。
繊維のなんたるかを一切気にしないであろう夫は、相変わらず表情を変えずに咀嚼し、胃に流し込んでいく。空になった翡翠色の器は、ほうれん草の水分を受けて、深くみずみずしく濡れていた。
ふと、こんなきれいな翡翠色の湖を、見に行きたいなと思う。
子どもたちには、まだ退屈だろうか。それとも喜ぶだろうか。子どもたちの手が離れてからでもいい。夫と二人で、きれいな湖を見に行きたい。はて、それは一体、何年後のことなのだろう。
ほんの少し途方に暮れながら、しかしどこか指先が温まるような感覚を覚えながら、私は空になった翡翠色の器を流しへと運んだ。
