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幸せの温度は、湯気に似ている。

 石焼きいも屋を、そういえば最近見かけない。寒い季節になると現れ、駅前や住宅街をゆっくり走って回る、あの移動販売トラックのことである。

 子どもの頃、夕方になると、母とふたりでよく買いに走ったものだ。


「い〜し焼〜きいも〜、焼〜きたて〜」

 スピーカーの呼び声が静かな住宅街の空気を揺らすと、母はほとんど反射的にわたしを誘う。


「……買いにいっちゃう?」

「いっちゃう!」

 石焼きいも屋は幻だ。油断していると、気配だけ残してすぐに消えてしまう。店を見失わないよう、音の方向だけを頼りに、わたしたちは玄関を飛び出した。

 夕飯の時間がせまっていても、空けておく腹の容量などちっとも計算できないわたしと、同じく計算を放棄し、いたずらっぽく笑う母。子どもの間食には厳しい母だったが、どうやら焼きいもは「許された存在」らしい。


「ふたつ、ください」

 分厚い防寒着に埋もれた店主に伝えると、首がわずかに縦に動く。この店主はおじさんか、それともおばさんか。ほとんど顔が見えないせいで、性別がはっきりしない。その謎めいた雰囲気が、幻の存在である石焼きいも屋をさらに幻影的に見せた。

 店主が大きな窯を開け、紙袋に焼きいもをすべり込ませる。受け取るとずっしり重い。その紙袋を、母はいつもわたしに持たせてくれるのだった。


 紙袋を大事に抱え、夕暮れの道を歩く。待ちきれず袋の中をのぞき込むと、黒く焼かれた無骨な皮が見えた。もしわたしが「焼きいも以前」の人類だったら、あまりの黒焦げ具合に驚き、袋を放り投げたかもしれない。

 しかしわたしは知っているのだ。その皮の下の真価を。あぁ、早く食べたい。

 半分に割った黄色い断面からたちのぼる湯気を想像をするだけで、まつ毛や頬の産毛がしっとり温まる。「ひとくちだけいい? 」とせがむわたしを「帰ってからね」とたしなめる母も、きっと同じ気持ちだっただろう。


 すれ違った人には、生まれたての子犬を抱いているように見えたかもしれない。しんと冷える夕方に、幸福の体温が奪われないように。焼きいもがおびえてしまわないように。そんなふうに、ぎゅっと紙袋を抱きしめて、家路へと急ぐのだった。


 鮮明に刻まれている情景は、しかしそこまでである。

 一度や二度ではなかったはずなのに、紙袋の温かさはありありと思い出せるのに、焼きいもの味も、無骨な皮の下が放つ黄色いホクホクした光も、母の笑顔も、記憶からすっぽり抜け落ちている。

 目の前のおいしさばかりに一直線な、強欲な子どもだった。食べものにまつわる楽しい記憶の中ではしゃいでいるのは、いつだって自分ばかりだ。



「い〜し焼〜きいも〜、焼〜きたて〜」

 あの歌をもう何年も──もしかしたら何十年もきいていない。どこのスーパーでも年中焼きいもが売られるようになり、石焼きいも屋はほんとうに幻になってしまった。

 代わりに、最近よく自宅のオーブンで焼きいもを作る。低温でじっくり焼いていると、家中に甘い香りが漂い、子どもたちはすぐに気づいて駆け寄ってくる。

「もしかして焼きいも?」
「正解」
「っしゃぁ!」

 手渡すわたしと、受け取る子どもたち。湯気はその境界をたやすく曖昧にして、わたしたちを同じ温かさの中へそっと連れていく。

 必死にふうふう冷ましながら、待ちきれずに勢いよくかぶりつく子どもたち見ていると、思わず頬がゆるんだ。

 そうでしょう、おいしいでしょう、食いしん坊たちよ。
 その笑顔が見れたなら、母はそれだけで大満足なのである。


 ふと、あの日の夕暮れの情景が頭に浮かぶ。紙袋を抱えた小さなわたしのとなりで、母はどんな表情をしていたのだろう。

 もしかしたら、今のわたしと同じ表情だったのではないか。写真にうつしたら「ちょっとやめてよ」と思わず消したくなるような、日常の延長にある無防備な笑顔。

 忘れていた母の表情が柔らかく立ちのぼり、記憶をそっとつないでいく。幸せはいつだって、大げさな顔をしてやってはこない。気づかないまま受け取り、気づかないまま手放してきた幸せが、きっといくつもあったのだ。

 その淡くて頼りない気配に、そっと手を伸ばす。つかんでも形はない。それでも指先は今、かすかな湯気の温もりに触れている。





▼このnoteを書いた人

食の仕事14年目。8歳6歳3歳の母。食や家族のエッセイ多め。
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