Members 檜坂 Episode 01 〜午前8時50分の成行売りと、雨の日のモンブラン〜
午前八時五十分。社内のトイレの個室。 薄暗い蛍光灯の下で、梅本は便座に腰を下ろしたまま、スマートフォンの画面を凝視していた。 画面の中央に張り付いた『-304,500円』という無機質な数字。九時の市場オープンに向けた板の気配値が、神経を逆撫でするようにチカチカと点滅を繰り返している。
あと十分。市場が開けばどうなるか。考えるだけで胃酸がせり上がってくる。 昨夜、あのマホガニーの重い扉の向こうで、さやかが放った言葉が耳の奥にこびりついて離れない。 『——すぐにでも全決済しなさい』 親指が、画面の【成行売り】のボタンの上で微かに震えていた。これを押せば、毎日終電まで身を削って稼いだ一ヶ月分の労働が、完全に消滅する。
三、二、一。 梅本は目を閉じ、強ばった指を画面に押し付けた。
処理完了の通知。 その瞬間、梅本の全身から泥のような疲労感と共に、すべての力が抜け落ちた。絶望ではなかった。毎日チャートの上下に胃を焼かれ、生きた心地のしなかったあの呪縛から、ようやく解放されたのだ。冷たい便座の上で、自然と長い息が漏れた。
よし、と小さく呟く。ここから、また一からやり直しだ。 あの雨の夜、夢で見たのと同じ扉を開け、本物の怪物たちと出会って数週間。底辺を這いずる自分の「自己流」が通用するなどという甘い考えを捨てきれなかった結果が、この無惨な大火傷だった。
時刻は八時五十九分。 梅本は個室を出て、冷たい水で顔を洗った。鏡の中のひどく疲れた自分の顔から目を逸らすように、思考は数週間前の「あの雨の夜」へと逆行していく。
——見つけた。じいちゃんを騙した金で、のうのうと生きているあの男を。
ネオンが滲む、雨の繁華街。 梅本は自分の目を疑った。あの憎き不動産詐欺師が、派手で品の無いドレスを着た女と腕を組み、楽しそうに相合い傘をしながら目の前を通り過ぎていったのだ。 すれ違いざまに女が撒き散らした、鼻をつくような下品な香水の匂い。その匂いを辿るように、梅本は無我夢中で暗い路地裏へと足を踏み入れた。
しかし、突き当たりのどん詰まりで男の姿は霧のように消えていた。 代わりにそこにあったのは、周囲のけばけばしいネオンから完全に隔離されたように佇む、重厚なマホガニーの一枚扉だった。真鍮の極小プレートには、細い文字で『Members 檜坂』とだけ刻まれている。 梅本の背筋に悪寒に似た電流が走った。過去に夢に出てきた映像と、全く同じ光景だった。
何かに操られるように重いドアノブを回す。 滑らかな音とともに扉が開くと、外の湿った空気を切り裂くように、ウッドベースの重低音と紫色の煙が漏れ出してきた。 店内に入ると、カウンターの奥で丸氷を砕いていた女性が手を止めた。無駄のない、洗練された所作だった。彼女は梅本の安っぽいスーツを一瞥し、それでも静かに手招きをした。
「一人、なんですが」 「大丈夫よ。こちらへ」
促されるまま、分厚い一枚板のカウンターに腰を下ろす。 ママの桜子と名乗ったその女性に梅酒のロックを頼むと、梅本は張り詰めていた糸が切れたように、自分がここへ辿り着いた経緯をぽつりぽつりとこぼし始めていた。雨の中、祖父を騙した男を追いかけていたこと。そして、夢で見たこの扉に導かれたこと。
「その胸ポケットに挿してあるモンブランが、扉を開けたのかもしれないわね」
グラスを滑らせながら、桜子はふと梅本の胸元へ視線を落とした。 梅本は慌てて自分の胸ポケットに触れる。田舎から都会に出る時、祖父からお守りのように渡された古いボールペンだった。
「ほう。今どきモンブランとは、懐かしい」
不意に、背後から声がした。 カウンターの最奥。薄暗がりの中でアンバー色のグラスを傾けていた男——松さまが、静かに会話に割り込んできた。 男の纏う空気は、明らかに素人のそれとは違った。
「昔から、特別な契約時に使われていたものだよ。高級車、不動産、あるいは国家的な条約のサインにな。それだけの価値と重みがあるということだ」 「そうなんですか。俺はただのボールペンだと……」
梅本はグラスの水滴を見つめながら、重い口を開いた。 祖父は、元々は大地主だった。だが、人の良さにつけ込まれ、高級車を買わされ、マンション経営を唆され、知らないうちに連帯保証人にまでさせられた。結果、先祖代々の土地をすべて奪われた。その跡地に建った高級リゾートもテーマパークも今や廃墟となり、地元の人間からは祖父が悪者扱いされていること。
松さまはグラスを置き、氷のように冷たい声で事実だけを述べた。
「田舎の人間は、地元への帰属意識が強い。先代から次世代へ土地を繋ぐという想い。大衆が抱くそういった美しい『道徳』こそが、詐欺師たちにとって最も刈り取りやすい流動性(カモ)なのです」
梅本は深く俯いた。反論の余地はなかった。 都会に出て底辺のIT現場で働く自分もまた、正直者が馬鹿にされ、搾取される現実を嫌というほど味わっている。この職場で、祖父の形見であるボールペンの価値に気づく者など一人もいなかった。自分自身を含めて。
「ですが、あなたは少し、おじい様を誤解している」 「え……?」 「おじい様がそのボールペンを託したのは、ただ都会で舐められないための見栄ではない。『このボールペンの本当の価値を知る人間に出会え。そしてその人間から学び、自分のようにはなるな』。そのボールペンには、そういう血を吐くようなメッセージが詰まっているはずだ」
梅本は息を呑み、胸ポケットのボールペンを強く握りしめた。 ふと横を見ると、桜子はグラスを磨く手を止めていなかった。しかし、その手元に、一滴だけ透明な雫が落ちた。
「……ママ?」 「おじい様の気持ち、痛いほどわかるわ」
桜子の声には、一切の感情が乗っていなかった。絶対零度の響きのまま、ただ冷たく梅本の目を見据えていた。 店内に、重厚なジャズの音色だけが深く沈み込んでいった。
(第1話 完)

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