Members檜坂 Episode 05 〜騙し絵のチャートと、搾取のディストリビューション〜
夜の路地裏。 あの日、三十万の損失を自らの手で確定させ「更地」になった梅本は、再び『Members 檜坂』の前に立っていた。 損切りを実行した夜、あの銘柄の役員による会社資金の私的流用が発覚した。株価は後場からストップ安に張り付き、一週間後には半値まで暴落した。もしあのまま握りしめていれば、なけなしの資金は完全に電子の藻屑となっていた。
松さまの「しばらく相場は見ない方がいい」という忠告に従い、市場の狂気から二週間距離を置いてからの再訪だった。 鈍く光る真鍮のプレートを見つめる。 『——損切りできないなら、二度と扉は開かない』 さやかの冷酷な宣告を思い出し、梅本は胸ポケットのモンブランにそっと触れると、重厚なマホガニーのドアノブを回した。
抵抗なく滑らかに開いた扉の奥には、変わらずウッドベースの重低音が深く沈み込んでいる。 カウンターの奥でクリスタルグラスを磨いていた桜子が梅本を一瞥し、小さく頷いた。 「お帰りなさい。無事に戻ってこれたのね」 「……ただいま、です」
指定席へ腰を下ろすと、端で黙々とレモンをスライスしている黒いタートルネック姿のさやかを見つけた。梅本はすぐさま立ち上がり、深く頭を下げる。
「さやかさん。僕が損切りした直後、あの不祥事が出ました。決断していなければ、破滅していました」
だが、さやかは包丁を止めることなく、氷のように冷たい声で遮った。
「勘違いしないで。助けたわけじゃないわ」 「え……」 「あの夜、あなたのスマホのチャートに、大口が極めて巧妙に売り抜けている不自然なアルゴリズムの足跡(ディストリビューション)が見えただけ」
さやかは包丁を置き、一切の感情を持たない瞳で梅本を射抜いた。
「沈むことが確定している泥舟に、何も知らずに道徳だの応援だのと言いながら幻想を見ているのが許せなかっただけ。それ以上でも以下でもないわ」
カウンターの最奥から、氷の鳴る音がした。松さまだ。
「梅ちゃん。あなたが盲信していた『SNSで超人気』というポジティブな情報。あれはすべて、プロたちが自分たちの保有株を高値で売り抜けるために意図的に流した提灯(プロパガンダ)ですよ」 「提灯……!?」 「ええ。あなたたちのように『素晴らしい企業を応援したい』と純粋に群がってくれる大衆がいたおかげで、彼らは無事に最高値で株を現金化し、泥舟から逃げ切ることができたのです」
投資という名の社会貢献が、裏の世界では初めからプロの脱出用通路(出口流動性)として設計されていたという圧倒的な現実。梅本はギリッと唇を噛み締めた。あまりの理不尽さに、涙すら出ない。
「高い授業料だったけれど、あなたは余計な見栄もノイズもない、綺麗な『更地』を手に入れたのだから」
桜子が淡々と告げたその時、背後の扉が重々しい音を立てて開いた。 いつになく足取りの軽い竹さんが、上気した顔でカウンターへ歩み寄る。
「ママ、いつものを。最高の気分だよ。……おっ、梅ちゃんじゃないか。手痛い損切からのリハビリは終わったかい?」 「ええ、なんとか。……そういえば竹さん、数週間前に言っていた『HFT(高頻度取引)に強制決済された銘柄』、あれどうなったんですか?」
竹さんは受け取った焼酎を煽り、満足げに笑った。
「なんとか社内で買い戻しの稟議を通したのさ。アルゴリズムが引き起こした真空地帯の底値付近で、きっちり拾い直した。今日の反発で大幅プラスだ。終わってみれば最高の買い場だったよ」
梅本の脳裏に、あの夜の光景がフラッシュバックする。 『——お昼のサプライズ決算でHFTの餌食にされた』 竹さんは確かに、目の前でそうこぼしていた。
桜子がクスリと笑い、竹さんのグラスに視線を落とす。
「おかげさまで、私も今日の寄付きで全決済して利益確定済みよ」 「流石に抜け目ないね。で、さやかちゃんは?」
さやかはレモンをトングで扱いながら、抑揚のない声で答えた。
「私もママのメモを見て買いました。今日半分を利確し、残りはノーリスクな資産として現物で長期ホールドに回しています」 「ママのメモ……!?」
梅本は息を呑んだ。あの夜、桜子がカウンターの隅に貼り付けたメモのことだ。 松さまがロックグラスを鳴らす。
「ついでに私は、配当専用口座の銘柄を入れ替えました。本当に素晴らしい市場の歪みでしたね」
竹さんは呆れたように首を振る。
「おいおい。俺は『どの銘柄か』なんて、一言も口にしてないんだぜ?」 「当たり前じゃない。今の地合いで『決算発表直後で増収増益増配したにもかかわらず暴落した銘柄』なんて、スクリーニングをかければすぐに絞り込めるわ。あとは寄り付きの板の気配を見れば一目瞭然よ」
桜子の言葉に、梅本はその場に立ち尽くしていた。 同じ夜。同じ時間。同じ空間で、全く同じ一次情報を受け取っていたにもかかわらず。 彼らは瞬時に富を掠め取り、自身の基盤を強化した。何の武器も持たない自分だけが、美しい道徳と提灯に踊らされ、一ヶ月分の労働をドブに捨てた。 これは生ぬるい情報格差などではない。市場の裏側にある構造を読み解く『リテラシー格差』がもたらす、資本主義の本質的な暴力だ。
梅本は震える手で自身の膝を掴み、深くうなだれた。
「……俺、同じ場所にいたのに。竹さんの話を真横で聞いていたのに……何一つ、気づけなかった」
松さまが静かに言う。
「審美眼を持たない者には、目の前に転がる『富の源泉』も、ただの雑音にしか聞こえない。……だが、悲観する必要はありませんよ」
梅本は顔を上げた。
「あなたは今、自分が『何も見えていなかった』という偉大なる真実に、自らの痛みをもって気づくことができたのだから。ここで『資本の算数』を学びなさい。そうすれば次回は、市場の歪みを的確に捉えて富を手に入れることができる」
松さまの氷のような瞳が、梅本を真っ直ぐに捉える。
「さあ、ノイズに満ちた平庸な世界から抜け出し、一緒に『資本を操る者』のテーブルにつく覚悟はできましたか?」
梅本の曇っていた瞳の奥に、冷徹な知識への渇望が小さな炎となって灯る。 ジャズの重低音が、新しい世界の住人の産声を祝福するかのように、店内に深く沈み込んでいった。
(第5話 完)

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