人が好きで、よかった。
ラウンジでの仕事が終わった。
4ヶ月の契約期間を満了し、僕は再びどこにも属していない人間に戻る。
小説家志望、無職。
ティーセットが載ったトレンチを筆に持ち替えて、ひたすら動かし続ける日。
一日二万歩は超える運動量の働き方から、急低速。
いきなりブレーキを踏まれた車みたく、全身にじんわり熱がこもっている。
もしも僕が自分の身体なら、突然引きこもり同然になった主人に小一時間、説教でもするだろう。
「太なるで、自分」
こういうとき、なぜか出るエセ関西弁。
◇
緩慢な一日の終わり。
動き足りない気がしてならない。
書くことと、働くこと。
僕にとってこのふたつは相反する世界だったはずだ。
働くのがきらい。
思うに、僕が怯えていたのは、失われることだったのだ。
自分という存在が、関係のなか、組織のなか、社会のなかで、矮小化され、消化され、成長の実感のないままに年老いていく。
自分の可能性、未来、希望、複雑さが先細る。
でも、この一年の経験を経て知った。
杞憂だったか。
いや、とっくに知っていたのだけど、きちんと向き合う機会を得たと言ったほうが正しいか。
自分が、いかにたくさんのものの中のひとつなのか。
本を燃やせ。
順番どおりに、列に並べ。
単調なリズムで踊ろう。
自分が、何者であるのか。
幸運なことに、今回の職場での僕の評価はポジティブなものだったと思う。
「10月にオーストラリアに行きます」
顔をあわせたメンバーは、別れを惜しんでくれた。
「あなたの替えはききませんよ」
「また、飲みにいこうね」
「海外から帰ってきたら、またおいで」
そう言ってもらえることの、どれだけ嬉しいことか。
「辞めないでくださいよお」
君、いっしょに働いたことないやろ。
ふと気づく。
ああ、ここはとっくに自分の居場所になっていたのだな。
まかないがなくて、食費の心配をしていたこと。
通勤に時間がかかりすぎること。
人が多すぎて、気を遣いすぎて、頭がパンクするのではないかという不安。
全部ぜんぶ、過去になって。
色んな人間と関わった。
偉い人も、そうじゃない人も、すぐ辞めた人も、息の長い人も。
組織が大きいというのは、色んな人がいるという当然。
この人は、朝が弱い。
この人は、食べるのが好き。
この人は、きれいにしたい。
改めて、思う。
僕は人が好きなんだな。
人が好きで、よかったな。
どうしてこんなに好きなのか。
たぶん小説が好きなことと繋がっている。
小説は、キャラを楽しむものだから。
物の見え方とか、思考のクセとか、謎の行動力とか。
違いを楽しめるんだ。
自分と、他人と、世界との。
ズレを楽しむもんなんだ。
もしかしたら。
結局好きなのは、自分のことなのかもな。
別に、それでもいいか。
自分のことが好きだから。
異なる他者も愛せるわけで。
矛盾、叱責、エゴイズム。
つまりは世界の複雑さ。
丸ごと愛してしまえるわけで。
「ありがとう」
今はただ、それだけ。
僕は戻らないだろう。
世界をもっと、複雑にするために。
もっと、愛するための旅をする。
身体よ、黙ってついて来いや。
了
この一年の経験をぎゅっと凝縮。興味のある方は、ぜひ。
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