待つことの幸福
タブレットPCの電源をいれて、いつもの作業に取り掛かろうとしていると、【更新プログラム】の通知が、画面にやたら大きく表示された。
正直言って、僕はこのソフトウェアアップデートの類いが嫌いだった。
「今、あるものでいいのに」
iPhoneにしても、Windowsにしても、いつだってそんなふうに思う。
何度も何度も『後で通知』という選択をして、できるだけ先延ばし。
更新した結果、一新されるUIのデザインや、より便利になると謳われる諸機能に、なんの価値も感じない。
それでも最後には『今すぐ更新』を押さなければならないのは、アプリやソフトが、古いものに対応しなくなるせいだ。
現代文明は、変わらないであろうとする者を許しはしない。
◇
仕方なく『更新』を選んだPCの更新は遅々として進まなかった。
筆記の習慣を終え、英文リーディングのノルマを終え、朝の読書を終える段になっても、画面上の数値は60%だった。
「まだか……」
と呟いてから、しかしそれが決して嫌悪感だけではないことに気づく。
安心、退屈、肯定感。
なんと呼べばいいのかわからないが、そういうものが心の何処かでぬくもりを放っていた。
そしてそれには「憶えがある」と思った。
◇
僕は去年の2月からこの一年間、ずっと停滞していた。
停滞と言っても、なにもしなかったわけではない。
むしろ両親と祖父母の間をいったりきたりし、家族イベントもそれなりにあったし、家事もしたし、本も読んだし、書くことはずっと継続しているから、逆に休むことを考えなくてはいけないくらいだった。
端から見れば、それなりに忙しく見えていたと思う。
でもその日々が過ぎ去った今、僕はそれが『待つ』という文脈から生まれた充実だった気がするのだ。
僕にはこの一年、待っている人がいた。
それは先週、ひとつの結末を迎え、僕は『待つ』という文脈から切り離されてしまった。
だから今、その状態にあった自分がどれだけ幸福だったのかが理解できる。
そこでは、例えば朝食にご飯ではなく、トーストを食べるようになったことですら、『待つ』ことに組み込まれていく。
「いずれこのトーストはまた、ご飯に戻るんだろうな」
という感じに。
英語の小説を何冊も読めるようになっても、K‐POPを聴き始めても、車の運転にすっかり慣れてしまっても、10年のパスポートを取得しても、noteで報酬が発生しても、それは停滞であり、『待つ』ことの文脈だった。
そして、僕は幸福だった。
PCの更新が終わったので、この文を書いている。
『待つ』ことが終わったとき、人はどこかに向かって歩きはじめなければいけない。
向かう先が幸福に見えなかったとしても。
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