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【前半無料】note書き下ろし短編小説『巡礼者と黒い小舟』(10000字)





 巡礼者と黒い小舟









 夜明け、岸壁



 遠い水平線から、幾重にも連なってやってくる波の形をした闇を、少年はただ岸の上から見ていた。

 輪郭は白。音は等間隔に浮き沈みを繰り返し、何時間も何日も、何年という歳月すらも通り過ぎては打ち寄せ、また何年もかけて海の中心に戻っていく。

 少年もまた、そのようにして何年もそこに座っているように見えた。

 身をつつむ着丈の長い白のローブには、瞬く星のエンブレムが何箇所も縫いつけられ、夜風にたなびいている。体は細く、もし側を通り過ぎる人があれば、不運にも崖に根をおろすことになった枯れ木の枝に、遠くから舞ってきたぼろきれが引っかかっているように見えるだろう。

 強い潮風が少年の頬をうった。

 深く被ったフードが剥がされ、顔があらわになる。彼の肌はその身なりとは裏腹に、生まれて数ヶ月の赤子を思わせる白さ。柔らかな鼻梁には、くすみひとつない。

 空と海の、弓なりの輪郭がにわかに明るみだす。

 その光を集めて小さな翠を帯びる瞳を閉じて、少年は短くぬるい息を吐いた。


 そろそろ、行かなくては。


 少年の純朴な、しかしどこまでも物悲しげな声は、誰にともなく告げた。

 このたゆたう波のように。

 薄れゆくあの天の星々のように。

 そして、いましがた世界をぐるりとみつめてきたあの朝日のように。

 行かなくては。

 彼が岸壁に放りだしていた両足をたたみ、立ち上がろうとした、その瞬間。

 がりっ、という音がして、浮遊。

 ム。

 欠けた。

 今まで自分の太ももを抱いていた岸壁の先端の岩が欠けたのだ。ということに気付いたのは、自分とともに落下する岩のかけらが視界に入ったとき。

 波の音が迫る。

 ああ、これで。

 水の飛沫の一粒が顔に触れ、唸る海面に飲み込まれる一瞬、少年は思った。

 これで私は『解放される』だろうか。

 そして、衝撃。



 黒い石の小舟



 最初は水の音だった。

 ちゃぷん、ちゃぷんと小魚が水たまりで遊ぶような、ささやかな水の音。次には、ゆりかごのような穏やかな揺すぶりが感じられた。そして、冷たさ。

 少年は輝く陽気に顔をしかめながら、起き上がった。今、顔に当たる日差しは暖かいが、それを受ける床は底から冷たい。

自分はその床に寝かされていたのだ。石材だろうか。硬く、混じり気のない黒が滑らかに加工されている。

 ム、これは、舟か。

 少年は逡巡した。

 しかし舟ならば、錨や帆があるはずである。係留縄や櫂や銛や、樽や籠などがあるはずである。

 なにもない。

 立ち上がると、自分が裸足であることにも気付いた。足の裏に、床石が一段と冷たい。唯一身にまとっているくすんだ白いローブを踏むとわずかに湿っている。

 そもそも石の舟が水に浮いているということ自体、おかしなことではないか。一部が木材であるとか独自の機構があるとか、そのような特徴はない。舟、というよりも舟の形に丁寧に磨かれた石くれ、といったほうがしっくりくる。

 観察しつつ船体の方に目を向けると、床が長方形に象られていることに気づく。なにかの祭壇じみたその長方形が、ただでさえ狭い船上の空間をより圧迫している。

 なんなのだ、ここは。

 周りを見渡しても、ただ水面に反射した陽の光が眩しいのみ。大海原に黒い石の小舟が一隻。その上に、一人。

 動いているのか。

 少年は思った。

 この舟は動いている。しかし、風の力でも波の力でもない。

 風は今、舟の正面右斜め前方から吹いているし、小さな波は横に打ち寄せ、舟の脇腹を叩いている。

 この舟は異物だ。

 風を無視し、波に逆らい、どこかに向かっている。この広大な海において、たったひとつ、まったく別の力を持ったもの。別の理に属するもの。逸脱したもの。夜空に浮かぶ月。黒髪に交じる白髪。巣の中の托卵された卵のひとつだった。

 そして、そこに乗る私は……。


 ふいに風がごうと吹いて前方を見ると、陸が見えた。

 最初は水平線のもつれにすぎなかったそれは、陽が高く登るにつれて鮮明になり、やがてひとつの島になった。舟はまっすぐにそこを目指していた。

 私は。

 と少年は思った。

 私は、今からあの島に行く。あの島に行って、何かをする。何かをしなければならない。知っている。あれは私の知る地ではない。しかしそのことは私の、一部だ。それ以上でも、それ以下でもない。

 大きな風が五度ふき、少年は砂浜に降り立った。



 歯のまばらな男



 島に降り立つ前、少年は驚いていた。

 次第に輪郭をはっきりとさせたその島には、背の高い毛むくじゃらの大樹があり、乳白色の砂浜があり、青碧の浅瀬があった。その色彩が、青と黒だけだった少年の世界に波紋をなげたのだ。

 小舟はゆっくりと漂い、くぼんだ入り江で動きを止めた。

 そこに、人影。

 少年をなによりも驚かせたのは、そのことだった。

「あなたは、ああ、黒い舟。遠くにこの舟の影を認めたときから考えていましたが。まさか、巡礼者さま。こんなことが。こんな島にあなたのような人がやってくる日がくるなんて。ああ、信じられない」

 この男は、何を言っているのだろう。

 少年は口には出さず、何やらを話し始めた男を観察した。

 何年も厳しい風雨にかきまわされた頭髪、つぎはぎのパンツ、土を焦がしたような体臭。それから、まばらになった歯。

 君は、まるで人ではないみたいだ。

 少年は、今度は静かにそう声に出した。男は内から溢れてくる独白になんとか蓋をしているといった調子で答えた。

「す、すみません。巡礼者さまのようなお方のみならず、こうして誰かと話すのは本当に久しぶりなことで」

 その、ジュンレイシャサマ、というのは、もしかして私のことか。

「……え、ええ。そうです。それは奇妙な問いですが」

 君以外に人は。

「いません。まったく。全然。今も昔も。ですからこうして巡礼者さまとお話できること自体、あっしには奇跡なのです。どうか、ちょっとばかりおもてなしをさせてください」

 男がにかっと微笑むと、歯のまばらな様子がよく見えた。いつの間にかくすんだ手のひらが、少年の腕を強く掴んでいる。

 長居はできない。そんな気がする。……しかしまあ、ちょっとばかりというのであれば問題はあるまい。

「ありがとう存じます、ありがとう存じます」

 歯のまばらな男は何度も頭を振ってから、歩き始めた。



 巡礼者さま



 少年は男のあとに続いて、林に分け入った。

 林には背の高い木と、長い葉をもつ植物が茂り、鳥や虫の声でざわめいていた。

「気をつけてくださいね、巡礼者さま。ここいらの林には獣も出ますから。とはいっても、岩場までくることはありませんがね」

 歯のまばらな男は、住居があるという岩場に向かう道を先導しながらそう言った。

 ケ、ケモノ……か。そいつは、どんな姿をしているんだ。

「ああ、いえ、あっしは直接見たことがないんです。ただ眠っているとどこかから唸り声が響いてくるんです。夜明け前に釣りにいくときにですね、ここのサカナは夜のほうが活発ですから。で、すると林のなかに痕跡があったりするんです。例えばほら、あそこの太い枝。あんなもんが折れて地面に転がってたりするわけですよ」

 ……長居はできないな。

 少年は目深にかぶったフードをすこし持ち上げた。

 ム。異様な匂い。これもケモノの痕跡というやつなのか。

 「あ、ああ、いえ、これはあっしの屁です。お恥ずかしい話で、人と接する機会がなくなってからこっち、屁をこらえるということができなくなってしまって。屁をしたい、と思ったときにはもうすっかり全部出てしまっている、といった具合で」

 それは、難儀だな。

「我慢していただくしかありませんな」

 そうして住居にたどりつくと、歯のまばらな男は火を起こし始めた。

 住居というのは、林の奥の岩場に点在する洞窟とも呼べぬようなほら穴のひとつに、木やなにかの骨を組んだ椅子と机、薪、それからかき集めた落ち葉や、なにかの皮を敷き詰めてあるだけの空間だった。

 薪を飲み込んでいく炎が、男の真っ黒な瞳の中で踊る。

「もしかして、ご記憶がないのですか」

 記憶……。それが『ない』とは、どういう状態なのだ。

「困ったな。あっしは巡礼者さまのお役目なんかには詳しくないんです。どうも昔から不信心なもので」

 役目、というものがあるのか。

「ですから、あっしは詳しいことはわからないんです。ただ、あなたのような方はみんなから『巡礼者さま』と呼ばれているという覚えがあるに過ぎません」

 私のような、とはどういう部分だ。

「そりゃあ、あなたの身なりや黒い舟のことです。こう言っちゃなんですが、あんな不気味なもんに乗ってるのなんて、世界中どこ探したって巡礼者さまくらいなもんだ。おっと、失礼。どうも気をつかうってことを忘れちまってるな」

 ム、よくわからない。あの舟には、乗っているんじゃない。乗らなきゃいけない、と強く感じるだけだ。乗るとか乗らないとかいう問題ですらない、という気がする。

「じゃあここまではどうやって来たんです」

 どうやってもこうやっても、ただ来たんだ。それ以上でも、それ以下でもない。

「まいったな、こりゃ」

 歯のまばらな男は、らちが明かないという調子で首を振った。



 奇妙な木



 明くる日、歯のまばらな男はいなかった。

 昨晩、少年に記憶がない、とわかってからというもの、男は途端に言葉少なになり、少年に赤い果実を手渡すと、ひとりでさっさと眠ってしまった。

 ほら穴は空で、残っているのは焚き火の灰と枕代わりにしていた果実だけ。少年の身を包んでいた白のローブもなくなっている。

 おうい。

 少年はほら穴から抜け出して、声を出しながら進んだ。

 男の名も知らぬので、おうい、とだけ呼ぶ。そんなに大きな声を出すのははじめてで、自分の喉からこんな声が出るのか、と驚いた。

 木々のあいだの、ひらけた空間を横切る時、何かが少年の足にまとわりついた。

 ム。これは……骨だ。

 重くて硬く、ザラザラしている。木の枝とも岩とも異なる質感。触れていると、どこか温みさえ感じられる気がする。

 これも、これも、これもだ。

 林の中の開けた空間には、他にもたくさんの骨が散乱していた。それらは古く、痩せたもの、くびれたもの、欠けたもの、太いもの。周囲の大きな葉に隠されて、くすんだ白い欠片はそこら中に散らばっていた。

 急がなくては。

 少年は唐突に湧いた焦燥感にまかせて、骨の散らばる空間を後にした。

 やがて視界をいっぱいに覆っていた苔や草木が途切れ、砂浜に足を踏み入れるとすぐに自分の乗ってきた黒い小舟を認めることができた。到着したときとまったく同じ波打ち際で、ぴたりと静止している。

 その上に、なにかがはためいていた。

 あれは、私のローブだ。

 少年は濡れることもいとわずに波に逆らって歩き出す。ちょうど腰のあたりを海に浸したところで小舟にたどり着く。

 ム。

 黒い小舟の上には、背の低い痩せた木が根をおろしていた。ローブに縫い付けられた星のエンブレムが、木に絡み取られて歪んでいる。まるで海風に乗って舞い上がろうとするそれを、背をまるめて必死に抑え込んでいるようだった。

 いつからこんなものが生えたのだ。

 少年は不思議がりつつも、舟に乗り、奇妙な木をまじまじと観察した。

 私より一回り大きいくらいか。葉はない。よく見ると、根も舟の表面に這っているだけで、ここに生えているわけではないのか。

 ローブの端を掴んで引っ張ると、ぱりぱりという音とともに枝が折れ、簡単に取り返すことができた。

 なんなのだ、いったい。

 拾い上げた枝は軽く、枝というよりも炎の後に残った灰のようだった。幹の方もまた同じようにすかすかで中身がなく、邪魔だったので海に捨てるとふよふよと水面に浮かんだ。

 ム。

 いつの間にか、入り江が遠ざかっていた。波が打ち寄せているというのに、舟はその反対方向を目指して、独りでに動きはじめていたのだ。

 海面に揺れる奇妙な幹の姿が見えなくなったころ、前方をみつめた少年は、舟の甲板にあたる部分が左右に開いていることに気づいた。

そこには無数の白い花。

そして花の台座の中央には、純白の少女が寝かされていた。



 無垢の少女



 膝をたたむ。

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