なぜ人は、最適化に従ってしまうのか シリーズ幸福の暴走3/7
前回のつづき:他者が消えていく世界
前回は、AIの優しさの中で「他者」が消えていく、という話を書いた。
ズレや摩擦が減っていくことで、関係そのものが生まれにくくなっている。
そしてそれは、単なる技術の話ではなく、「文明の変化」ではないか、というところまで来た。
今回は、その続きだ。
なぜ僕たちは、それでもこの流れに乗ってしまうのか。
人間は「ラク」に引っ張られる
人間は、もともと「ラク」を選ぶようにできている。
脳はできるだけエネルギーを使わないように働くし、不快や危険は避けようとする。逆に、快を感じる方向には自然と進んでいく。
これは意志の問題というより、身体の構造だ。
だから、「迷わなくていい」「すぐに答えが出る」「ストレスが少ない」といった環境に出会うと、ほとんど反射的にそこへ向かってしまう。
考えて選んでいるつもりでも、その多くは身体の反応に近い。
アルゴリズムは本能に寄り添う
アルゴリズムは、その人間の反応を前提に設計されている。
行動データをもとに、「次に何を見せれば、その人が動くか」を学習していく。少しだけ刺激が強いもの、すぐに理解できるもの、自分の価値観にフィットするもの。
そういうものを外さずに提示し続ける。
だから僕たちは、「選んでいる」というより、「選ばされている」に近い状態になる。
ふたつの文明のズレ
ここで、ふたつの文明をもう一度重ねてみる。
身体感覚文明は、感じることから始まる。経験し、関係をつくり、時間をかけて意味にたどり着く。
一方で、言語アルゴリズム文明は、データを処理し、文脈を予測し、最短距離で答えを返す。
前者は遠回りを前提にしている。後者は最短距離を目指す。
この方向の違いが、少しずつズレを生んでいる。
意味は、あとから立ち上がる
人間にとって、意味は「考えて」生まれるものではない。
感じて、経験して、関係の中で揺れて、あとから立ち上がってくるものだ。だから、意味には時間が必要になる。
たとえば「ととのう」という言葉がある。
サウナに入ったことがない人がこの言葉を知ったとき、意味は説明できる。「気持ちいい状態のことだ」と理解することもできる。
でも、それはあくまで言葉としての理解だ。
実際に身体で体験したとき、人は必ずしも「ととのう」とは言わない。ただ「気持ちいい」と言うかもしれないし、「たまらない」と言うかもしれない。
あるいは、「なんだこれは」とか、「すごいな」とか、言葉を探し始める。
やがてそれを「ととのう」と呼ぶ人もいれば、「宇宙だ」と言い出す人もいる。
体験が先にあり、言葉はあとから追いついてくる。
そのとき、言葉と体験が溶け合う。その瞬間に、身体をもつ僕たちは「ああ、生きている」と感じる。
それが、幸福のひとつのかたちだと思う。
意味が先に来る世界
でもアルゴリズムは、そこを飛ばす。
まだ経験していないことに対して、言葉だけで「意味らしきもの」を提示する。効率はいいし、理解も早い。
ただ、その言葉は身体を通っていない。
だからどこかで、実感が追いつかないまま、理解だけが先に進んでいく。
意味だけが先に来る。
幸福の暴走はなぜ起きるのか
ここでようやく、構造が見えてくる。
人間の本能はラクを求める。アルゴリズムはラクなものを提示する。このふたつが、ぴったり噛み合ってしまっている。
人はラクなほうを選び、アルゴリズムはそれを強化する。
そのループが回り続ける。
その結果、快適さはどんどん上がっていく。
でも同時に、ズレが減り、摩擦が減り、関係が浅くなっていく。
これが、幸福の暴走だ。
気持ちいいから止まらない
この構造が厄介なのは、それが「気持ちいい」ことだ。
苦しければ人は立ち止まる。でもこれは違う。むしろ心地いい。スムーズで、ストレスがない。
だから止まらない。
しかもこの変化は、ゆっくり進む。ある日突然ではなく、少しずつ。
気がついたときには、それが当たり前になっている。
自分もその中にいる
そしてこれは、誰かの問題ではない。
僕自身も、この流れの中にいる。便利なものを使い、効率的な方法を選び、最適化された環境に身を置いている。
それを完全に否定することはできない。
問いを持ち続ける
だからこそ必要なのは、答えではなく問いだと思う。
この選択は、本当に自分のものなのか。
この快適さは、何と引き換えなのか。
この効率は、何を削っているのか。
それを問い続けること。
次は、この流れの先にあるものを考えたい。
最適化の中で、関係はどう変わっていくのか。
