身体を使わない幸福は、なぜ空虚なのか シリーズ幸福の暴走5/7
現実世界が遅く感じられる
AIでClaudeCodeなどを使って、今までに比べてとんでもなく速いスピードで開発ができるようになると、相対的に今の現実世界が遅く感じるようになる。
たとえば、Webサイトで何かフォームに入力したり検索したりしているオンラインでもそうだし、レジで並んでいたり、壇上の誰かの話を聞いていたりするオフラインの世界でも、「遅い」と感じるようになる。
しかし実際の現実世界は、畑に作物が実るのも、花が芽吹くのも、子供が育つのも、自分の怪我が回復するのも時間を必要とする。
当たり前だが、AIの世界に没頭していると忘れてしまいがちだ。
身体はAIの速度では回復しない
ただ僕らはAIと違って身体があるから、飽きるし、眠くなるし、疲れるし、無理をしすぎると体は病む。
AIとずっと向き合っている時間は、自分がその場を物理的に動いていないのに、目の前でいろんなものが出来上がってくるから、とてもエネルギーパフォーマンスがよいように感じてしまう。
だが、実際は体は疲れる。
ホイミのような回復魔法があるわけじゃないから、AIが身体を回復させてくれるわけではない。食べなくてはいけないし、寝なくてはいけない。
しかしそれを忘れて没頭していった時、周りの現実世界の動きが遅いことに苛立ってきたりもする。
例えば、ClaudeCodeで自分が作ったサービスの利用者が増えなかったり、AIを使って書いた文章が読まれなかったりすれば、完成までの時間の短さに比べて、ずいぶん時間がかかるように感じるから苛立ったりする。
こんないいものがあるのになんで使おうとしないんだ、なんて他者を否定する心が生まれ始めたりする。
なんだか暴走モードに入ってきているように感じるだろう。
マトリックスの球体の中で
ここで僕自身の体験談を書く。
僕は昨年、AIを使ったことが理由ではなく、さまざまなストレスで自律神経を乱してしまい、半年ほどあまり動くことができない日々を過ごした。
体験したことがある人ならわかると思うが、自分の身体がまったく思う通りにならないことはとても苦しいし、自分の身体があることを逆に絶望的に感じることもあった。
その一方で脳は余計なことばかり考えてしまうのだからタチが悪い。
しかしエネルギーは使うから、食べ物は必要とする。
まるで映画マトリックスの球体のなかにいる人間のようだった。
いや、ともするとあれだけ身体が苦しい時、いっそバーチャルな世界の中に自分自身の自我が転生してしまったほうが楽なんじゃないか、とも思ってしまうこともあった。
思うようにならない身体
身体があるから我々人間は、思うようにならない。
疲れるし、眠くなるし、腹は減るし、腹が減ればイライラするし、炭水化物をとりすぎれば眠くなるし、食べすぎて眠れば眠りの質は悪くて翌朝また疲れた状態からスタートする。
実に思うようにならない。
じゃあ、私たちはこの身体と付き合うことをやめるか?身体を使わない幸福にいくことを選ぶだろうか?
仙豆と食事
たとえば食べるということであれば、ドラゴンボールの仙豆のように、一粒食べればすべてが回復するというものを求めるだろうか。
うん、ほしいときもある。
食べる時間がないとき、食欲がない時、食事を準備するのがとても億劫な時、そんなときに仙豆があれば、うれしいだろう。
そのときに、私たちは「食事」という営みを忘れるだろうか。手放すだろうか?
身体感覚文明に生きている私は、やはり食事は好きだ。
たしかに準備は大変だ。60分準備しても10分もかからずに食べ終わったりするし、後片付けもしなくてはいけない。だけど、やはり好きだ。
やはりこの満足感は、時間がかかることとセットなのだろうか。
AIに聞けば、それなりの回答が言語でくる。その回答を聞けば、「うんそうだね」と感じることはできる。だからといって、それでお腹は一杯にならないし、おいしいと感じないし、満足にはならない。
当たり前のことなのだが、仙豆の合理性・即時性に対して、食事、とくに和食のような手間のかかる食事の非合理性・非即時性は、身体感覚文明とはなにか、を顕著に示してくれる。
食べていても、味わっていなかった
自分の体がおもうようにならなかったメンタルダウンの時期は、食べていても味わっていなかった。

身体機能的に味がわからない、ともいえるし、認知機能的に味をわかろうとしていない、ともいえた。
おにぎりを食べる。味噌汁を飲む。食べているのに、味わっていない。腹に入れているだけだ。それでも腹に入れることは大事だから、食べる。
映画の中でほんとにお腹がすいていると味わわないで食べるし、悲しい時さみしいときに食べて「おいしい」と思うのは、食べ物というより、与えてくれた人の優しさに触れた時に、感覚が戻ってくるからだ。
味わうという行為は、実に複雑なものだ。

吟味するということ
AIがつくってくれた文章を読んで、「いい感じか、それともそうじゃないか」を判断するのを、僕は「吟味する」と言っている。
これは「味わう」ということだ。味わってみて「いまいち」「良い感じ」と判断している。
文章の羅列で一見筋が通っていても、分散した情報を並べ直してつながりのある文章にしてくれたとしても、そこに味わいを感じるかどうかを、自分に残している。
これには割と時間がかかる。
AIが文章を紡ぐ、つまり画面上に出力するより、味わうのは時間がかかる。
だーっと流し読みして時間を短縮して速読したとしても、「これでいい感じかどうか」を自分の中で味わって判断をするのには時間がかかる。
身体を通るから、時間がかかる。
身体の重さを感じたり、画面の前にいる自分を感じたり、読むという行為と「読んでいる」という実感が一致していたり、そこに「まどろっこしいな」とは思いつつ、たしかな時間が流れている。
GINとKIN、そして裸の王様
一方で、「味わう」「吟味用」のAIエージェントが、この文章を読んで「判断」するときには、時間が極限まで圧縮されることになる。
僕もやがて「味わう」ことを面倒に感じ、遅く感じ、文章を書くことと別の吟味用エージェントを育成するようになり、そのとき文章吟味エージェント、GINが僕にこんな風に伝えてくるだろう。
「この文、文章作成エージェントのKINが書いたものだけど、この辺はいけてないと思うんだけど、どう?」
その報告に僕は、「よきにはからえ」と言うだけの裸の王様になるのかもしれない。
接地状態と浮遊状態
身体を使うというのは接地状態、Grounding、つまり自分のこの思うようにならない身体の重さを認識していることと言える。
一方で身体を使わないとは浮遊状態、Floating。
これは寝ている時がそうかもしれないし、熱にうなされて動けないのに思考だけが回り続けてしまうような身体状態になったときは、この感じに近いように思う。
割とこの「夢見」的な状態を望む人たちも多いと思うし、浮遊状態にいることがいけない、というわけではない。
だが、僕たちはAIと共生し、見えないところでどんどん物事が進んでいく姿を目の当たりにしたり、もしくは「よきにはからえ」と言う裸の王様のように「見ようともしない」ようになっていくようになると、身体はどんどん浮遊するだろう。

市井の出来事を気にもかけず、王宮の中で吟遊詩人と歌を歌いあっているようになったとき、ついにAI時代になり人は遊んで暮らせる余暇が生まれた、と言えるかもしれない。
一方で身体はどんどん浮かび上がっていくようになるだろう。
天空の城を探し求めるやもしれぬ。
欲と浴
身体が欲する本能的な「欲」は「よく」と読むが、同じ読み方の漢字に「浴」というものがある。
● 欲
「谷+欠」
谷=空洞。
欠=欠ける。
つまり、満たされない状態から生まれる。
欲とは、「足りない」から生まれるエネルギーと解釈できる。
● 浴
「氵(水)+谷」
水が身体に流れ込むイメージ。
つまり、浴とは「満たされる」「浸る」というイメージが湧く。
この対比は、かなり核心だと思う。
欲は、外に取りにいく。浴は、内側で満ちていく。
つまり、欲はアルゴリズムと相性がいい。浴は身体と相性がいい、だろう。
人は「欲」で世界を拡張してきた。しかし、これからは「浴」で世界を受け取る必要がある。
森林浴、温冷浴、海水浴
森林浴、温冷浴、海水浴。
どれも何かを得る行為ではない。すでにある環境に身を浸す行為だ。
欲は足りないものを埋めようと外へ向かう。浴はすでにあるものの中に身体を置く。
森の中に入る。水に触れる。風にあたる。
そこで起きているのは変化ではなく、接地だ。だからこれらは効く。健康法だからではない。身体が戻れる場所だからだ。
事という営み
もうひとつ似た言葉がある。
「事」だ。
食事、家事、法事。
どれも日常にある、少し面倒で非効率な行為だ。効率で考えれば減らしたい。外食で済ませればいいし、家事は外注できるし、法事は形式的に見えるかもしれない。
でもよく見ると、全部が身体を通る。
手間があり、繰り返しがあり、時間がかかる。つまり、身体が関与する余白がある。
マトリクスとして考える
最後に食事のことをもう一度触れておく。
このマトリクスを見てほしい。
余談だが、僕は映画のマトリックスも、整理するマトリクスもどっちも好きだ。だけど映画マトリックスを何度も見ようとは思わない。ただ、あの「眠っているところから起きる身体感覚」を多くの人に映像を通じて共通体験させたことはすごいと思う。

幸福の方向を強引に二つに分けてみる。
ひとつは時間をかけ、身体を使い、意味が立ち上がる方向。もうひとつは即時に満たされ、プロセスを圧縮する方向だ。
これを図のように並べてみると、左上には浴や事が来る。森林浴や食事や家事のように、時間がかかり、身体を使い、その中で意味が生まれる。
右下には、いわば「仙豆」が来る。一瞬で回復し、努力が不要で、プロセスがない。
右上には、洗練された欲が来る。サプリや最適化された睡眠、AIのレコメンドのように、良さそうに見えるが即時性に寄っているもの。
左下には、まだ意味になっていない身体がある。ただの疲労や痛みや不快のような、未分化の状態だ。
仙豆ほしい、でも事が大事
ここで面白いのは、「仙豆ほしい」という感覚と、「事が大事だ」という感覚が、同時に存在していることだ。
仙豆は回復のショートカットで、身体のプロセスをスキップする。時間を圧縮する。これはアルゴリズム文明そのものだ。
一方で、事は手間があり、時間があり、関係がある。プロセスの中に意味が宿る。これは身体感覚の側だ。
だから両者は矛盾する。
仙豆は「過程はいらない」と言い、事は「過程こそ意味だ」と言う。
ただ、この矛盾は間違いではない。むしろ人間の本音だと思う。
楽になりたい。すぐに回復したい。これは本音だ。
同時に、ちゃんと生きている実感がほしい。これは別の本音だ。
人は「楽したい」と「ちゃんと生きたい」を同時に持っている。
どこまで仙豆を使っていいのか
ここで「幸福の暴走」というテーマに戻る。
暴走とは、仙豆側に寄りすぎることだ。
すぐ治る。すぐ届く。すぐ満たされる。この方向が加速すると、身体と事が消えていく。快適や便利を求め続けると、幸福は上がっているように見えて、実感が落ちていく。
逆に、事だけの世界も危うい。非効率が正義になり、苦労礼賛や精神論に傾く。
だから問いは「どちらを選ぶか」ではない。
私たち人間は、これからの世界でどこまで仙豆を使っていいのか。
この問いが幸福の暴走を問うテーマとなる。
人生を回復させるもの
私たちは仙豆を欲している。しかし同時に、仙豆だけの世界では生きられないことも知っている。
仙豆は身体を回復させるが、記憶は残らない。事は疲れるが、物語が残る。
仙豆は身体を回復させる。しかし、人生を回復させるのは「事」である。

ここまで来て、最初の話に戻る。
空虚とは、身体を使っていないことではない。身体に戻れないまま得られる満足が空虚なのだ。
そして回復は、劇的には起きない。おにぎりを食べるような、小さな行為の中で、少しだけ戻る。その繰り返しの中でしか、戻ってこない。
ぼくはいまでも、ときどき浮く。だから、そのたびに戻る。
おにぎりを食べる。水に触れる。手間のかかることをする。
少しだけ、ここに戻る。その遅さを受け入れるしかない。身体がそういう速度でしか生きられないからだ。
