「行かなくていい」から「行こう」へ──くるみと私、学校との向き合い直し
学校なんて行かなくていい」と言っていた私。 それなのに今、私は「学校へ行こう」と娘に言っています。
矛盾しているように聞こえるかもしれません。 でも、その間にあった日々とたくさんの葛藤を経て、 私は少しずつ、考え方も行動も変わってきました。
これは、不登校になった娘と向き合いながら、
母親としての未熟さや限界を認め、
それでも前に進もうとする私の記録です。
そしてそれは、私自身が社会ともう一度つながりなおす過程でもあります。
昔の私と今の私
以前の私は、こう思っていました。
「無理してまで学校に行く必要なんてない」と。
娘・くるみが苦しそうに学校へ通う姿を見て、
「そんなにつらいなら、行かなくていい」と本気で思っていたのです。
でも今の私は、学校に頻繁に連絡を取り、
保健室登校やテストの別室対応をお願いしながら、
くるみが安心して学校に関われる方法を探しています。
あの頃とは正反対の行動をとっている自分に、驚きすら感じます。
「学校」という言葉を見つめ直す
私は以前、「フリースクールを作りたい」と話していました。
でも今ならはっきり言えます。
私が本当に求めていたのは、
くるみが安心して過ごせる“場”だったのだと思います。
それは、すべての子どもにとって理想の学校を作ることではなく、
たったひとりの娘の居場所を探し続けていたのだと。
私は、彼女を管理しすぎていました。
そしてその管理は、気づかぬうちに彼女への「圧」になっていたのです。
でも、それを自覚できたのは、
支えてくれた周囲の人たちのおかげです。
変化のきっかけは3月
くるみの変化が顕著になったのは、3月のことでした。
楽しみにしていたYouTubeの番組が終わり、
周りの方々から「親子でいつも一緒にいるのは少し変」と言われたこと。
小さな出来事に見えて、私たち親子には大きな揺さぶりでした。
私は立ち止まり、自分自身を振り返るようになりました。
このままでいいのか? 本当に彼女のためになっているのか?
問い直す時間が始まりました。
孤独だった娘、戸惑う私
くるみには、頼れる人が私しかいません。
私が受け止めきれなかったとき、彼女は完全に孤独になってしまいました。
家出をしたのも、そのサインだったと思います。
「助けて」と言えず、代わりに行動で必死に訴えていたのです。
私は異変に気づいていました。
でも、思春期を迎えたくるみの変化に戸惑い、
どう接すればいいか、わからなくなっていたのです。
母としての反省と気づき
私は深く反省しています。
くるみは、私が笑顔でいられる限り、従順で穏やかでした。
でも私が不安定になると、何も言えなくなる。
私は、彼女を“安心させるための存在”にはなれていなかったのかもしれません。
だからこそ、ようやく気づきました。
「まず、私が変わらなければならない」と。
「余計なことはやめよう」と決めた日
私は生活保護を受けながら、持病と向き合い、暮らしています。
それでも「誰かの役に立ちたい」と焦って、
イベントや企画を無理に立ち上げ、借金だけが増えていきました。
どうしても、自分の承認欲求を満たしたかったし、
社会の一員として認めてもらいたかったのです
お金がなくなれば、心の余裕もなくなる。
それが現実です。
だからこそ私は決めました。
まずは納税者になること。
そのときまで、無理な挑戦はしない。
くるみと私の人生に集中しよう。
そう思えるまでに、時間はかかりましたが、ようやく腹が決まりました。
くるみを社会につなぎなおす──母としてのミッション
くるみは、同世代の友達と楽しい時間を過ごしたいと、当たり前の欲求を持っています
彼女は起立性調節障害などの身体的な理由があって学校に行けないわけではありません。
ただ、いくつかの人間関係や出来事が重なり、
心がすっかり疲れ果ててしまい、学校に行けなくなったという背景があります。
本来なら、お休みは中学1年生の3学期だけで十分だったかもしれません。
そう思うと、あのままにしてしまったことを、私はいま深く後悔しています。
これから、私は半年かけて、彼女のサポートをしていきます。
戻れる場所を用意しながら、くるみが学校という“社会”に少しずつ関わっていけるよう後押ししています。
そして、楽しい学校生活を取り戻せるよう、そっと手を添えていくつもりです。
半径5メートルの関係性を大切にするということ
人生には、思いがけないことが次々に起きてきます。
環境の変化、体調の波、社会の情勢。どれも私たちの生活を揺さぶります。
そんな中で、私が何より大切だと感じているのは、
「半径5メートルの関係性」――つまり、一番身近な人たちとのつながりです。
それが、くるみにとってはまず「我が家」。
そして、今住んでいる地域の人々。
学校は、その身近なコミュニティの一部として存在しています。
もちろん、オンラインでのつながりが当たり前になった現代では、
人がどこに居場所を持つかは多様になっています。
でも、自然が好きで、五感が豊かに育っているくるみにとって、
現実の空間で人と関わること――つまり「学校」は、
彼女にとってかけがえのない社会の入り口だと私は思っています。
信頼できる少人数との関係の中で、
安心して話し、ぶつかり、学べること。
それが、彼女の社会参加の第一歩になるのだと信じています。
学校を否定しすぎる危うさ──理想ではなく現実と向き合う
昨今、「学校の画一的な一斉授業は子どもの主体性を奪う」という論調をよく耳にします。
また、海外への教育移住を選ぶ家庭も増えており、
多くのご家庭で、子どもたちの教育のあり方に対する選択肢が広がってきていると感じます。
私自身、ご縁があって、東京や京都にあるいくつかの中高一貫校や中学校を見学させていただく機会がありました。
国私立と公立では、カリキュラムや教育サービスの内容に明らかな違いがあります。
特に私立校では、IT技術や対話を重視した新しい教育スタイルに取り組む先生方が多く、
世界の教育動向を常に意識しながら、自分たちの教育のあり方を振り返っている姿勢がとても印象的でした。
一方で、公立校でも限られた環境の中で、生徒に寄り添い、柔軟な対応を続けている先生方もたくさんいます。
教育改革の波に遅れまいと、現場で必死に模索している先生たちの存在にも、私は強い敬意を抱いています。
たしかに、どの学校にも課題はあります。
しかし、完璧な場所など存在しません。
学校の価値をまるごと否定してしまうことは、
子どもたちが持ちうる選択肢を狭めてしまう危険があると私は感じています。
また、「学校は行かなくていい」と一括りに語られる風潮の中には、
実際に学校で深く傷ついた経験を持つ人の声も多くあると感じています。
それらの声は、軽んじられるべきではありません。
ただ、それでも私は、現実と向き合いながら制度や環境をどう活かすか、
そしてその中でどう子どもを守っていくかという視点こそが、
私たち親にとって大切なのではないかと、今は強く実感しています。
私は教育の専門家ではありません。
ただの母親です。
だからこそ、理想を語るより、今ある現実を使いながら、
子どもにとってよりよい選択を一緒に模索していきたいと思っています。
社会とのつながりを絶たないために
学校を全否定することは、自身が属する社会との断絶につながる。
くるみにとって、私という家族だけで世界を完結させてしまうのは、
あまりにも危うい道です。
私たちは社会に不満を抱くことがあっても、
簡単に革命や暴動を起こしたりはしません。
それは、今の暮らしの中にも守りたいものがあると、
感覚的にわかっているからです。
くるみにも、「全部を否定して逃げる」のではなく、
「どう関わっていくかを自分で取捨選択する力」を育ててほしいと思っています。
私自身の歩みも、これから
くるみの状況が落ち着いたら、
次は私自身の人生を整えていく番です。
5年かけて、社会に少しずつ戻っていく。
焦らず、でも着実に。
それが、今の私にできる目標です。
誰かのために生きる前に、大切な順番を
誰かの役に立ちたい。
社会の中で、もう一度何かを生み出したい。
その思いは変わりません。
でも今は、その前にやるべきことがあります。
まずは、くるみの未来を支えること。
そして、自分自身をちゃんと立て直すこと。
その土台ができた先に、
自然と「誰かのため」が生まれてくる。
今はそう信じています。
